中山道 第50宿 伏見宿 鬼の首塚と女郎塚

太田宿

旅行日:2021年11月11日

美濃の山間部から御嵩宿までくると、もうすっかり街の中である。 ここから加納宿(岐阜市)に向け、しばらくは国道を中心に歩くことになる。

伏見宿への途中、バスを使った中山道ツアーの団体と遭遇した。 参加者に話を聞くと、ガイド付きのバスで移動しながら、要所要所を見て回る日帰りツアーだそうだ。 逆に「どこから来た?」と聞かれたので、「日本橋から一人でコツコツと歩き、今日は細久手宿から歩いてきた」と話したら、ビックリ仰天していた。

日 付 区 間 里程表 計画路 GPS 万歩計
2021年
11月10日
大井宿~大湫宿 3里18町 13.7Km Map GPS 32986歩
大湫宿~細久手宿 1里18町 5.9Km
2021年
11月11日
細久手宿~御嵩宿 3里 11.8Km Map GPS 29,974歩
御嵩宿~伏見宿 1里 3.9Km
2021年
11月12日
伏見宿~太田宿 2里 7.9Km Map GPS 15,701歩
合 計 11里 43.2km 78,661歩
日本橋からの累計
(累計日数 : 31日目)
98里27町 387.8Km 683,226歩

里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。

「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。

GPS  : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。


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御嵩宿を後にする

2017年から10年の歳月をかけ、全解体修理真っ最中の御嵩宿願興寺。 街道はこの願興寺門前から右折・左折を繰り返しながら国道21号に合流し、更に京を目指して西へと向かう。

願興寺

「可児才蔵」という戦国時代の武将が、幼少の頃に願興寺で暮らし、その後明智光秀に仕え、本能寺攻めに加わったと説明書きがあった。

願興寺

願興寺前で右折し、更に時計台を持つ時計店で左折すると、旧道らしい雰囲気を持つ通りに入る。

旧中山道

旧中山道

中央公民館先の十字路には、木製の笠と火袋を持つ、文政4年(1821)建立の常夜灯が立つ。

常夜燈

国道21号にぶつかる手前には、立派な台石を持つ秋葉常夜灯も立つ。

常夜燈

鬼の首塚

国道21号に入ると、電柱の足元にひっそりと古い道標が立つ。 文字は良く読めないが、「左京大坂道」と刻まれているそうだ。

古い道標

鬼の首塚

悪事の限りを尽くした関ノ太郎は、祭礼に女装で現れたところを討たれ、首は検分のため首桶に納めて京へ運ばれた。 ところが急に首桶が重くなり、縛っていた縄が切れて、首が転げ落ちてしまった。 そしてその首も動かすことが出来ないので、この地に埋めたという。

鬼の首塚

鬼の首塚

鬼の首塚には20人ほどの先客がいて、ガイドの説明を受けていた。 バスを利用した中山道ツアーで、ここから伏見宿に向けて歩くそうだ。 なるべく距離を置いて歩こうと、少し休憩をとる。 

顔戸城址と斎藤道三

国道21号を進み、途中で左の旧道に入る。 旧道らしく、道は左右に緩くカーブしながら続く。

旧中山道

顔戸城址

再び国道21号に合流し、可児川に沿って進むと顔戸橋が見えてきた。

顔戸橋

国道から右に入ると顔戸城址である。 応仁の乱で活躍した斎藤妙椿が築城したという平城で、”美濃のマムシ”と呼ばれた斎藤道三との関係を調べてみた。 その結果、斎藤道三の旧姓は長井規秀で、没落した斎藤家の家督を継いで”斎藤利政”と名乗り、下克上の道を歩み始めたようである。

顔戸城址

空堀と土塁が残され、空堀の底から土塁まで10mの高さがあるそうだ。

顔戸城址

比衣一里塚跡

顔戸城址からさらに進み、国道21号と旧道の分岐に「比衣一里塚跡」の碑が立つ。 日本橋から96里だが、残念ながら遺構は残ってない。

比衣一里塚跡

東海環状自動車道の下をくぐって街道を進む。

旧中山道

伏見宿へ

再び国道21号に合流し、歩道橋の上から伏見宿方向を望む。

国道21号

国道沿いにある伏見警察駐在所のところで右の小路に入り、畑の向こうに見える2階建て民家を目指して畑の中の道を進む。

旧中山道

名鉄八百津線の廃線跡を横切る。 現在はサイクリングロードに整備されたようである。

廃線跡

名鉄八百津線廃線跡の先から東坂を上ると、国道21号に戻ってきた。 伏見宿は指呼の間である。

旧中山道

伏見宿本陣跡と尾州領界石碑

伏見宿は日本橋から数えて50宿目。 当初の中山道は、御嵩宿から現在の可児市土田(どだ)にあった土田宿に向かい、そこで木曽川を渡って鵜沼宿へと続いていた。 しかし木曽川の流れが変わり、渡し場も上流へ移動したため、土田宿は廃止され太田宿が開設された。 しかし御嵩宿と太田宿間の距離が長かったため、間の宿としてあった伏見が宿場に格上げされたという。

伏見宿本陣跡

本陣は現在の伏見公民館の敷地にあったようで、公民館前に本陣跡の碑が立つ。 しかし本陣の遺構は何も残っていない。

伏見宿

尾州領界石碑

本陣の碑の横には尾州領界石が立ち、「是よ里東 尾州藩」と刻まれている。 元は西坂にあったが廃藩置県で撤去され、後にここに移設された。

尾州領界石碑

伏見交差点の一本松公園には、「右御嵩」「左兼山 八百津」の道標が立つ。 鬼の首塚で一緒になった、中山道歩きの団体に追いついてしまった。

伏見宿

洞興寺と女郎塚

伏見宿は木曽川舟運の川湊である新村湊を有し、荷の集積地として賑わった。 また木曽川の渡しが川止めになると旅人で溢れた。 そのため多くの飯盛り女を抱えていた。 しかし宿場全体では半農半宿の家が多く、余り豊かではなかったそうだ。 また大火で家屋を焼失したが、再建できる体力もなく、江戸後期にはかなり疲弊したという。

洞興寺の女郎塚

伏見交差点を左に300mほど入ると洞興寺がある。 境内には安産子育ての菩薩「子安観音」や女郎塚がある。

洞興寺

境内には身寄りのないまま病死した女郎たちを弔うため、女郎塚が築かれている。

女郎塚

明智駅へ

洞興寺の女郎塚を見た後、スマホの地図を頼りに激細・激坂を下って名鉄の明智駅に向かう。

明智駅

明智駅を越えて1Kmほど行くと、明智光秀が30年間過ごしたという明智城跡がある。 NHKの「麒麟がくる」で、斎藤道三の息子・義龍に攻められ、光秀が明智家再興を託されて逃げ延びた城である。 しかし、もう歩くことに飽きたので明智城跡はパスし、名鉄で新可児へ移動し、可児市内のホテルに宿泊してこの日を終えた。 


 

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