中山道 第57宿 垂井宿(2) 静かな宿場風情を残す町

垂井宿

旅行日:2022年6月11日

前日は美江寺宿から赤坂宿を経て、垂井宿の入口で歩を止めた。 大垣で宿泊し、翌朝再び垂井の駅に降り立つ。

垂井の近くには古代の美濃国府が置かれ、さらに一の宮の南宮大社もあり、美濃の中心だったようである。 江戸時代に入ると宿場として発展し、中山道と美濃路の追分として栄えた。

この日は天下分け目の「関ケ原」を目指すが、その前に垂井宿の街並みウォッチングからスタートである。

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コースデータ

  • 日 付  :2022年6月11日
  • 街道地図 :垂井宿~関ケ原宿
  • 宿間距離 :垂井宿~関ケ原宿 1里14町(5.5Km)
  • 日本橋から:累計112里24町(442.5Km)
  • 万歩計  :11,915歩

※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図

軍師「竹中半兵衛」にご挨拶

JR垂井駅前に立つ戦国時代の軍師「竹中半兵衛」。 「これより関ケ原に向け出陣いたします」とご挨拶して出発。

竹中半兵衛

垂井宿

日本橋から57番目の宿場町。 中山道と東海道を結ぶ脇往還である美濃路の起点であり、また南宮神社の門前町として賑わった。 史跡や古い街並みも見られるが、観光地化していない静かな宿場のたたずまいを残す町並みであった。

 紙屋の神様 紙屋塚

街道から細い路地に入ると、紙屋の守護神といわれる「紙屋塚」が立つ。  この地は古代の国府に近く、国府で使用された和紙を作る紙屋があったという。

紙屋塚

 旅籠 亀丸屋 鉄砲窓や隠し階段があるという

街道は宿場の中で鉤の手に曲がっている。 その正面に立つ建物が、旧旅篭の亀丸屋である。

垂井宿

安永6年(1777)築という建物が残る。 2階に「鉄砲窓」があるというが、2階屋根下に並ぶ窓のことを指すのか?

客を逃がす隠し階段もあるそうで、旅篭といえども防備を固めていたようだ。 新選組の池田屋事件を考えると、まぁ納得である。

旅籠亀丸屋

「旅籠」の看板を掲げる渋い玄関。 旅館として数年前まで営業していたが、残念ながら廃業したらしい。

旅籠亀丸屋

垂井宿の街並み その1

垂井宿

栗田本陣の跡は歯医者さんへと変わり、本陣の遺構は何も残っていない。

垂井宿本陣跡 垂井宿

南宮大社石鳥居のある十字路を右に入ると、下見板張りと漆喰の蔵が並んで建つ。

垂井宿

垂井の泉へ

宿場の中央付近に、南宮大社の石の鳥居が立つ。

南宮大社は関ケ原の合戦時に焼失。 その後、春日局の願いで三代将軍・徳川家光が再建した際、石屋権兵衛が400両を投じて建立したという。

南宮大社石鳥居

この鳥居をくぐり少し南へ歩くと、宿場の名の由来となった「垂井の泉」が湧いている。

垂井の泉

樹齢800年という大きなケヤキの根元から湧いていたが、2015年に倒れたため伐採された。

垂井の泉

垂井宿の街並み その2

垂井の泉から街道に戻り、垂井宿の後半部をキョロキョロしながら進む。

時の流れを感じさせる建物と、廃業した大衆食堂の看板が郷愁を誘っている。 どのようなメニューを提供していたのだろう?

垂井宿

 旅籠 長浜屋

天保2年(1831)、13代将軍徳川家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に宿泊時、お輿担ぎ23名が長浜屋に泊まったという。

その後鉄道の開通により旅人が減少したため酒屋となった。 現在は休憩所として宿場の資料を置いているそうだが、訪れた日は閉まっていた。

旅籠長浜屋 旅籠長浜屋

 本龍寺 太鼓楼が残る

本龍寺山門前に高札場があった。 また山門と書院玄関は、垂井宿脇本陣の金岩家から明治初期に移築したもの。 太鼓楼の姿が格好良い。

本龍寺

 小林家住宅主家

幕末頃に建てられた家で、油家を営んでいた卯吉から明治14年(1881)に小林家が譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んでいたという。

油家卯吉家跡

長屋氏屋敷跡と八尺地蔵尊

街道を外れ少し南に入ると、南北朝時代の垂井の豪族・長屋氏の屋敷跡がある。

南朝に京を奪われた北朝の後光厳天皇は、足利義詮らと共に垂井へ避難した時に長屋氏の屋敷を仮御所にしたという。 後に足利尊氏も訪れて宿泊している。

長屋氏屋敷跡

さらに南へ進むと八尺地蔵尊が祀られている。 盲目の母が仏のお告げを受け、八尺(約2.4m)の穴を掘ると3体の地蔵が現れ、8尺4方のお堂を建立。 お祀りすると忽ち目が見えるようになったと云う。

八尺地蔵尊

安藤広重が描いた 垂井宿京方出口

街道に戻り、少し進むと垂井宿のはずれ「西の見附跡」である。 この見附前から垂井宿を振り返ると、曲がりくねった道が街道の雰囲気を醸し出している。

垂井宿

垂井宿の京方入口である西の見附。 宿場の役人はここで諸大名の行列を迎え、非常時には門を閉鎖したという。

垂井宿西見附跡

安藤広重の浮世絵「木曽街道六十九次之垂井」は、この見附あたりから西を見て、小さな橋を渡って垂井宿に入ってくる大名行列を描いている。

垂井宿

垂井宿から3キロほど北西に行くと、竹中半兵衛の陣屋跡とか墓がある。 しかしちょっと遠いので諦め、いよいよ関ケ原に向けて出陣である。

 


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