美 濃(濃州)

【 スポンサーリンク 】
美 濃(濃州)

中山道 第59宿 今須宿(2) 美濃路最後の宿場を行く

美濃十六宿の最西端の宿場である今須宿。すぐ先は美濃と近江の国境である。明治期になると東海道線が開通し、宿場機能が廃れて衰退したようである。現在は宿場時代の建物や遺構は少ないが、静かな時間が流れる宿場である。
美 濃(濃州)

中山道 第59宿 今須宿(1) 「天下分け目の戦い」は2度あった

中山道関ヶ原宿から今須宿の間には、古代東山道時代の関所「不破関」跡がある。この関所を境に、関東と関西という呼称が使われるようになったともいう。また壬申の乱の激戦地でもあり、関ケ原の戦いと2度の天下分け目の戦いが繰り広げられた地である。
美 濃(濃州)

中山道 第58宿 関ヶ原宿(2) 古戦場に男の美学を貫いた大谷吉継

「天下分け目」という言葉が冠されるほど有名な関ケ原の戦い。両軍合わせて15~16万の兵力がぶつかり合った。東西両軍の武将たちが見ていた戦場に思いを馳せ、レンタサイクルで古戦場めぐりを行うことにした。
美 濃(濃州)

中山道 第58宿 関ヶ原宿(1) さまざまな「天下の分け目」

「天下分け目の関ケ原」で有名な関ヶ原宿。しかし正月のお雑煮で「切り餅」か「丸餅」かの分け目も関ヶ原である。他に「うどんつゆ」「いなり寿司」「スキヤキのネギ」など、様々な「分け目」が関ケ原近辺にあるようだ。
美 濃(濃州)

中山道 第57宿 垂井宿(2) 静かな宿場風情を残す町

江戸から57番目の垂井宿。旅籠だった亀丸屋や長浜屋の建物などが残り、観光地化されていない静かな宿場風景を残している。南北朝の争乱期には、北朝の仮御所が置かれ、足利尊氏も訪れたという歴史を持っている。
美 濃(濃州)

中山道 第57宿 垂井宿(1) 「昼飯町」と「青墓町」

赤坂宿から垂井宿の間には、源義朝(頼朝や義経の父)が平治の乱で平清盛に敗れ、落ち延びてきた地が青墓町がある。また江戸城三大刀傷事件に数えられる事件を起こした青野城城主など、歴史的な逸話に事欠かない地域である。
美 濃(濃州)

中山道 第56宿 赤坂宿(2) 「お嫁入り普請」で見栄を張る

「お嫁入り普請」とは家並の見栄えを良くするため、街道側だけを2階屋に見せた建物。言い換えれば「なんちゃって2階屋」である。幕末の皇女和宮降嫁時に、赤坂宿があまりに貧相だったので、この方法で54軒も立替えたという。
美 濃(濃州)

中山道 第56宿 赤坂宿(1) 呂久川は流れを変えて揖斐川へ

中山道の美江寺宿と赤坂宿の間には呂久川が流れ、渡し舟で川を越えていた。あの皇女和宮も呂久川を御座船で渡っている。しかし現在は細い用水路に姿を変え、ここに渡しがあったとは思えない。呂久川は何処に消えたのだろうか???
美 濃(濃州)

中山道 第55宿 美江寺宿 樽見鉄道「鉄印」求めて寄道する

河渡宿から美江寺宿を目指して歩いたが、美江寺宿手前を走る樽見鉄道で歩みを止めた。樽見鉄道の鉄印を得るため、本巣駅へと寄道するためである。翌日再度樽見鉄道美江寺駅から中山道歩きを再開。美江寺宿をゆっくり見て、次の赤坂宿へと向かった。
美 濃(濃州)

中山道 第54宿 河渡宿 「小紅の渡し」で長良川を渡る

加納宿を出発し、河渡宿を目指す。途中中山道の裏街道として栄えたという「小紅の渡し」を利用して長良川を渡る。つかの間の船旅ではあるが、気持ち良い川風に吹かれながら、往時の旅人気分を味わうことができる貴重な体験であった。
【 スポンサーリンク 】
タイトルとURLをコピーしました