旅行日:2022年6月11日
垂井宿を終え、いよいよ関ヶ原宿を目指して出発である。 関ヶ原は、慶長5年(1600)に「徳川家康」率いる東軍と、「石田三成」率いる西軍が戦ったことは有名である。
関ケ原の戦いを「天下分け目の関ヶ原」と良く言うが、お雑煮で使うお餅の「切り餅と丸餅の分け目」も関ヶ原である。 他にどのような分け目を持っているのだろうか?
コースデータ
- 日 付 :2022年6月11日
- 街道地図 :垂井宿~関ケ原宿
- 宿間距離 :垂井宿~関ケ原宿 1里14町(5.5Km)
- 日本橋から:累計112里24町(442.5Km)
- 万歩計 :11,915歩
※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図
垂井宿を出発 いざ関ヶ原へ
安藤広重の浮世絵「木曽街道六十九次之垂井」に描かれた、垂井宿「西の見附」から、大谷川に架かる前川橋を渡って関ヶ原に向かう。
朱の鳥居が並ぶ「松島稲荷神社」。 五穀豊穣を願い、天保10年(1839)に伏見稲荷を勧請・創建された。 往時は松並木で、松島という村があった。
東海道線と国道21号を渡り、垂井宿からの中山道を振り返る。(左に分岐していく道が中山道垂井宿方向)
日守の茶所と垂井一里塚
国道21号を越えて再び静かな街道となり、日守の集落に入る。 この日守には、細畑一里塚以来久しく見なかった一里塚が残されている。
日守の茶所
岩手の美濃獅子門・化月坊が、江戸時代末期に関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前墓所)に「秋風庵」を建立。 明治期にこの地に移築し、中山道の休み処として昭和初期まで利用された。
垂井一里塚
日本橋から112里の垂井一里塚の南塚が完全な形で残る。 東京の板橋にある志村一里塚と、この垂井一里塚の2ヵ所のみが国指定史跡となっている。
この一里塚には「浅野幸長陣跡」の説明版が立っていた。 父親は豊臣秀吉死後の五奉行の一人であるが、幸長は石田三成との確執から東軍に属した。 関ヶ原の古戦場に入ったようだ。
野上七つ井戸としゃもじ塚
垂井町を出て関ヶ原町に入る。 関ヶ原バイパスの上を渡り、静かな野上の集落へと入って行く。
野上の集落を流れる平木川。 細い流れだが、土石流が発生する恐れがあるという。 そのようには見えないのだが・・・
間の宿だった野上の集落を進む。
野上七つ井戸
「野上は水に恵まれず、僅少の地下水を取水して多目的に利用されてきた」と 説明版にあり、旅人たちの喉を潤したようだ。 つるべ井戸が再現されているが、現在は飲用には適さない。
しゃもじ塚
東海道線の線路沿いに、平安中期東国の武士・ 平忠常の墓がある。 反乱を起こしたが鎮圧され、京に移送途中に病で倒れた。 そこで野上の村人が食物を「しゃもじ」に乗せて差し出すと、食物としゃもじを一気に口に入れ、そのまま息を引き取ったという。
関ヶ原は様々な「分け目」の地であった
国道沿いに「天下分け麺処」という店があった。 うどんつゆが、鰹だしで濃口醤油を使った関東風と、昆布だしで薄口醤油の関西風の分け目の地だそうだ。
最近はうどんチェーン店のお陰で、関東でも関西風うどんを食べる機会が増えている。
関ヶ原は「天下の分け目」や「うどんつゆの分け目」以外に、数々の分け目を持っているようである。
・お雑煮のお餅 関東:切り餅 関西:丸餅
・スキヤキのネギ 関東:白ネギ 関西:青ネギ
・カレー・シチューの肉 関東:豚肉 関西:牛肉
・いなり寿司の形 関東:俵型 関西:三角
・マクドナルド 関東:マック 関西:マクド
必ずしも関ヶ原で綺麗に分かれている訳ではないだろうが、だいたい関ケ原近辺が境のようである。 関ヶ原の狭隘な地がボトルネックとなり、東西文化の違いを生んだのかもしれない。
徳川家康最初陣跡
街道を進むと山之内一豊の陣跡や、左手の山中に徳川家康が最初に陣を構えた場所などが見え、いよいよ関ヶ原合戦場の色合いが濃くなってきた。
野上の松並木
街道風情が残る松並木。 街道を行く旅人達に、夏には木陰を作り、冬には風や雪を遮っていたのだろう。
「良妻の鑑」といわれる妻を持つ山之内一豊が、関ヶ原合戦時にこの近くに布陣していた。
松並木の横に「六部地蔵」が祀られている。 六部とは 「六十六部」の略で、全国の社寺を巡礼しながら修行する者のこと。 宝暦11年(1761)頃にこの地で六部の人が亡くなり、祠を建て祀ったことに由来があるという。
徳川家康最初陣跡
国道反対側の桃配山中腹に、関ヶ原合戦時に徳川家康が最初に陣を構えた陣跡がある。
飛鳥時代の壬申の乱の折、大海人皇子(天武天皇)が陣を構え、兵士に山桃を配って勝利したことが桃配山の名の由来で、家康はこの故事にあやかってここに布陣したそうだ。
関ヶ原宿へ
旧道や国道21号を進んで、日本橋から58宿目の関ヶ原宿へと入って行く。 関ヶ原は宿場というより、「関ケ原の戦い」の合戦場のイメージの方が強い。 しかし昔から交通の要衝で、北国街道脇往還や伊勢街道が交わり、飯盛女が旅人の無聊を慰め宿場は賑わったという。
東海道線沿いの旧道を進むと、木立の中にひっそりと祀られる三面六臂の馬頭観音があった。
若宮八幡宮
旧道は再び国道21号に合流。 関ヶ原東町交差点付近が関ヶ原宿の江戸口だったようだ。
やがて若宮八幡宮が現れる。 関ケ原の合戦で焼失したため、家康は村に御扶持方3千人分を正月~6月まで与えたという。
牛若丸に殺された関ヶ原開拓の祖
街道沿いのガソリンスタンド裏手に「与市宮」がある。 民家の庭先なので、写真は撮らずにきた。
水の乏しい関ケ原に用水を引いた「関ヶ原与市」は、雨上がりに馬で進んでいた時、たまたま道端にいた牛若丸(源義経)の袴に泥水をかけてしまった。 これに怒った牛若丸は、与市を斬り殺してしまったという。 義経は人気があるが、別の一面が見えるようだ。
宿場内の街道風景
関ヶ原宿内を貫く街道は、国道21号となって拡幅されたため宿場の面影は薄い。 しかし街道風景を彩どる建物も少し残り、多少の風情を保っている。
宮内庁御用達のたまり醤油をつくる関ヶ原醸造。
おぉ~ いいね~ぇ
永長元年(1096)創業の老舗旅館「枡屋」。 もともと旅籠であった。
相川家が勤めた脇本陣跡。 当時の脇本陣門が残り、関ヶ原宿の数少ない遺構である。
十六銀行手前を右に折れて北国街道脇往還に入ると、八幡神社境内に本陣の庭にあったというスダジイが残る。
東西うなぎの捌き方の違いを検証する
今回の街道歩きはここで終え、午後は関ヶ原戦場めぐりの予定である。 その前に街道沿いにあったうなぎ屋さんで昼食にすることにした。
うなぎのかば焼きは、関東は「背開きで蒸して焼く」が、関西は「腹開きで蒸さずに焼く」という。 その分け目は浜松の辺りらしいが、実際に食して違いを検証してみようと、贅沢に「うな重」の松を頼んだ。
出されたうな重の蓋を開けてびっくり。 「ウソだろ? 松を頼んだのにコレかよ!」と目を疑った。 しかしよく見ると、ご飯の間にもう1段うなぎが敷き詰められている。
ホッとした安心感と空腹で、「背開き」か「腹開き」かなど忘れて一気食い。 ただ食感として皮の部分が少しパリッとした感じだったので、関西風だったのかもしれない。
美味しいうなぎに満足し、次は関ヶ原の古戦場めぐりへ。 駅前の観光協会でレンタサイクルを借りて回る予定だが、どうも雲行きが怪しい。 雨雲レーダーを見ると、1時間後に雨が降るという。 さてどうしよう・・・