2022/06/11 08:54:24
垂井駅前の竹中半兵衛に、「これより関ケ原に向け出陣いたします」と挨拶してこの日をスタートする。
2022/06/11 09:10:18
紙屋の守護神「紙屋明神」を祀る。 奈良時代の美濃国府が近くにあり、「官設抄紙場(すきかみば)」で、国府で使う紙を漉いていたようだ。
2022/06/11 09:13:09
鉤の手に曲がる枡形跡。 正面は旧旅篭の亀丸屋。 200年ほど前から、わずか数年前まで旅館を営んでいたが、残念ながら廃業したそうだ。
2022/06/11 09:18:33
栗田家が務めた垂井宿本陣跡。 現在は安田歯科となっており、本陣の遺構は残っていない。
2022/06/11 09:22:03
宿場の中心部に南宮大社の大鳥居が立つ。 南宮大社は、ここから1.3キロほど南にある。
2022/06/11 09:25:18
大ケヤキの根元から湧き出る泉で、「垂井」の地名の由来という。 大ケヤキは2015年に倒れ、残念ながら伐採されてしまった。
2022/06/11 09:30:18
築200年以上という、旅籠として繁盛した長浜屋。 残念ながら閉まっていて内部は見られなかった。
2022/06/11 09:35:18
南北朝が争っていた時代、南朝軍に京都を奪われた北朝の後光厳天皇は、足利義詮らと共に垂井へ避難、仮御所として滞在した。
2022/06/11 09:39:52
盲目の母が仏のお告げで八尺(2.4m)の穴を掘ると、3体の地蔵尊が出てきた。そこで地蔵堂を建立して祀ると、忽ち目が見えるようになった。
2022/06/11 09:46:40
垂井宿の京方出口。 広重が浮世絵「木曽街道六十九次」の垂井宿で描いた場所である。
2022/06/11 09:57:50
東海道線の踏切を越え、日守の交差点で国道21号を越える。
2022/06/11 10:01:20
関ケ原にある常盤御前の墓所にあった秋月庵を明治期に移築。 すぐ隣に日本橋から112里の垂井一里塚が残る。
2022/06/11 10:14:22
2022/06/11 10:24:37
静かな野上の集落を古戦場目指して進む。
2022/06/11 10:29:05
平安中期東国の武士・平忠常の墓。 反乱を起こし京に移送中、病で何も食えず、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えたという。
2022/06/11 10:45:37
丸餅と切り餅の分け目だけでなく、うどんつゆも関東風、関西風の分け目の地だそうだ。
2022/06/11 10:50:04
街道風情が残る松並木。 この付近に山之内一豊の陣跡があり、関ケ原の古戦場に入ってきた。
2022/06/11 11:02:20
関ケ原合戦時、桃配山に家康が最初の陣を構えた。
2022/06/11 11:19:24
関ケ原の合戦で焼失。 家康は修復のため、村に御扶持方3千人分を正月から6月まで与えたという。
2022/06/11 11:26:12
日本橋から58宿目。 桝形は無く、街道は一直線である。
2022/06/11 11:27:43
たまり醤油などを作っているようだ。
2022/06/11 11:33:21
脇本陣を務めた相川家。 当時の脇本陣門だけが残る。
2022/10/24 23:36:58
本陣裏手の八幡神社。大きなスダジイは、本陣の庭にあった木だそうだ。