中山道 第57宿 垂井宿(1) 「昼飯町」と「青墓町」

垂井宿

旅行日:2022年6月10日

赤坂宿を出て、中山道第57宿の垂井宿を目指す。 垂井宿へ向かう街道筋には、「昼飯町」とか「青墓町」という、少し変わった名の集落を通る。

豪華なランチを食べる風習でもあるのか、「昼飯町」とは興味深い名である。 また「青墓町」も、町名に”墓”が入るのは珍しい。 九州の方のお墓は金文字で家名などが彫られているが、この地では”青”にするのだろうか?

とりとめもなく想像を膨らませながら、垂井宿を目指して歩を進める。

【 スポンサーリンク 】

コースデータ

  • 日 付  :2022年6月10日
  • 街道地図 :美江寺宿~赤坂宿~垂井宿
  • 宿間距離 :美江寺宿~赤坂宿  2里8町(8.7Km)
  •      :赤坂宿~垂井宿   1里12町(5.2Km)
  • 日本橋から:累計111里10町(437.0Km)
  • 万歩計  :29,173歩

※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図

珍地名「昼飯」町に飲食店は無かった

赤坂宿を出ると、すぐに珍名「昼飯町」に入る。 「ひるめしちょう」と読んでしまうが、正しくは「ひるいちょう」であった。

西濃昼飯線跡

金生山で採掘された石灰を運んでいた。 しかし平成18年(2006)に廃線となったが、まだ線路が残されている。 貨物路線とはいえ、廃線の哀愁感が漂う。

西濃昼飯線跡

昼飯大塚古墳

昼飯大塚古墳は、岐阜県下では最大の前方後円墳である。 約1600年前に築かれたようで、勾玉・ガラスなどの玉類や土器、刀などが出土したという。

昼飯大塚古墳

岐阜大 旧早野邸セミナーハウス

岐阜大の第7代学長であった早野三郎の私邸が寄付され、セミナーハウスや歴史的資料の展示に活用しているという。 明治20年の建築と、案内してくれた方に説明を受けた。

岐阜大旧早野邸

お百度石が立つ如来寺

まだ新しそうなお百度石が立つ如来寺。  夜中など人目が少ない時に、白装束に素足で、暴風雨でも大雪でも100日間続けてお詣りをする”お百度詣り” 。  厳しいお詣りなので、百度石から参拝所までをグルグルと100回まわってお詣りし、一日で終えてしまうという簡易版、悪く言えば手抜きのお百度詣りもあるそうだ。

如来寺

東海道線の謎の路線を越える

やがて東海道線の謎の路線の鉄橋を潜る。 関ケ原と大垣間に、垂井駅の北側を大きく迂回する、もう一本の線路が通っている。 1944年に開通した「新垂井線」である。

なぜ新垂井線を作ったかはいろいろあるようだが、現在は特急や貨物列車などが走っている。

東海道線新垂井線

この東海道線の鉄橋を過ぎた先で「昼飯町」は終わりである。 残念ながら、昼飯を食べられるような飲食店は、街道沿いに1軒だけであった。

名の由来を調べると、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾い上げられ、長野の善光寺に納められる途中、仏像を運ぶ人たちがこの地でお昼ごはん(昼飯)をとったことが由来で、「ひるめし」が「ひるい」へと変化したそうだ。

青墓町  平家に敗れた源義朝が落ち延びてきた

”墓”の文字が入る町名も珍しい。 昔は東山道の宿駅があり、遊女も多くいて賑わったという。 名の由来を調べると、大きな古墳があることから「大墓」とか「王墓」と呼ばれ、その名が変化したらしい。

青墓町に入ると、「史跡の里」と書かれた標柱が出迎えてくれた。

青墓町

粉糠山古墳 古墳の上に更に墓が立つ

東海地方で最大の前方後円墳である。 「粉糠山」の名の由来は、青墓の宿場が盛んな頃、遊女達が化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり重なって小山となったという伝説からだそうだ。 現在は「親亀の背中に子亀を乗せて」のように、古墳の上にさらにお墓が立っている。

粉糠山古墳

青墓の家並

青墓町 青墓町

街道から少し入った所に延長寺がある。 青野城表門を移築したと伝えられる山門があるというので立ち寄ってみた。 しかし移築門は見当たらず、新しい山門が立っていた。 どうも解体撤去されたようだ。

ここにもあった「照手姫伝説」

歌舞伎の演目として江戸時代には大変な人気を誇ったという、「小栗判官・照手姫」の伝説は日本各地に伝わるが、この青墓の地にも照手姫伝説は残されていた。

照手姫水汲み井戸

照手姫の話は長い物語になるが、旅に出た照手姫は青墓の長者・よろず屋に売られ、客を取るよう強制される。 しかし これを拒んだため「籠で水を汲んでこい」と難題を押し付けられ、照手姫が小栗判官を偲びながらこの井戸で水を汲んだのだそうだ。

照手姫水汲井戸

国願寺芦竹庵と小篠竹の塚

義経伝説の残る芦竹庵跡には、「小篠竹の塚」と呼ばれる照手姫の墓がある。 照手姫の墓は、東海道藤沢宿の遊行寺にある小栗堂にもあった。

小篠竹の塚

芦竹庵と牛若丸

牛若丸が奥州へ落ちのびる途中この地で休み、亡くなった父や兄の供養と源氏の再興を祈った。 この時持っていた葦の杖を地面に刺して「さしおくも形見となれや後の世に、源氏栄えば、よし竹となれ」と詠んだ。 その後大地から芽を吹き根を張り、見事な竹になったそうだ。

青墓町の西外れに立つ標柱。 東山道の宿駅だった頃には遊女や傀儡子も多く 賑わったという。 しかし現在はその面影は失せ、静かな街道風景を見せていた。

青墓町

この青墓町にはもう一つ源氏の話がある。 平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(頼朝や義経の父)は、東国へ落ちる途中に青墓に辿り着く。 落ちる途中の戦いで足に傷を負った次男の朝長は、足手まといになることを拒み、僅か16歳の若さでこの地で自害したという。

垂井宿へ

大谷川を渡り、県道216号を越えると青野の集落へ入る。 青野には聖武天皇が国家安泰を願って築いた、全国66カ所の国分寺の一つである美濃国分寺があった。

青野の集落に入り、のどかな街道を垂井宿目指してのんびりと進む。

旧中山道

美濃国分寺跡と青野城

美濃国分寺への灯篭付きの道標が立つ。 ここを右に曲がり、250mほど北に進むと美濃国分寺跡だが、立ち寄らずにパスしてしまった。 後ろのお寺は教覚寺。 寺の入口には、青野城城主であった稲葉石見守正休公碑が立つ。

国分寺道標

青野城と江戸城三大刀傷事件

一万二千石の青野藩主「稲葉正休」の陣屋である青野城がこの地にあった。 貞享元年(1684)、この稲葉正休は江戸城内にて従兄弟でもある大老堀田正俊を刺殺。 自らもその場で斬殺され、青野藩は廃藩となった。 この事件は江戸城三大刀傷事件として数えられている。

ちなみにこの稲葉正休の祖父・稲葉正成の妻は、三代将軍・徳川家光の乳母である春日局で、乳母として江戸城にあがるため離縁したという。

青野一里塚と平尾御坊道碑

日本橋から111里目の青野(青野ヶ原)一里塚跡の碑と、大きな常夜灯が立つ。

青野一里塚跡

2体のお地蔵様が祀られ、傍らに「平尾御坊道標」が立つ。 ここを右に曲がり、北に向かうと平尾御坊願證寺がある。

平尾御坊道碑

砲弾が鎮座する喜久一丸稲荷神社

喜久一丸稲荷神社の拝殿前には、何と径28センチの砲弾が奉納されている。 台座に由来が彫られているが良く読めない。 帰宅後調べると、日露戦争時に旅順港内で敵艦バーヤンに命中した榴弾砲だという。

喜久一丸稲荷神社

垂井宿入口に到着

日本橋から57番目の宿場「垂井宿」入口に到着。 宿場内にケヤキの大木の根元から湧く清水があり、「垂井」の名が生まれたという。 また歌枕の地としても有名だそうだ。

中山道と美濃路の追分

大垣の墨俣を経由し、東海道の宮宿を結ぶ脇往還である美濃路との追分に立つ道標。 「是より右東海道大垣みち、左木曽海道たにぐみみち」と彫られ、中山道の道標の中で7番目に古いものだそうだ。

美濃路追分道標

相川に架かる相川橋を渡って垂井宿へ入る。 往時の相川は水量も多く暴れ川で、架橋できないため人足で渡っていたという。

相川橋

相川を渡った先が垂井宿の江戸方入口で、東見附があったという。

垂井宿入口

垂井駅前で竹中半兵衛にご挨拶

この日は垂井宿入り口で歩を止め、垂井駅に向かう。

垂井駅

垂井の駅前には、戦国時代に軍師として名を馳せた竹中半兵衛の銅像が立っていた。 地図をよく見ると、垂井の北の方に竹中半兵衛陣屋跡がある。

竹中半兵衛像

「本日はこれにて失礼つかまつる・・・」と竹中半兵衛に挨拶すると、「明朝関ケ原に向かって出陣せぃ!」との下知が心の中に響き渡った。 「ハハッ 承知 !!」と平身低頭。 JRで大垣に戻り、明日の出陣に備えアルコールで鋭気を養うことにした。

 


タイトルとURLをコピーしました