旅行日:2020年11月5日
美濃の東の玄関口である落合宿を出発し、次の中津川宿を目指す。 落合宿からしばらくは美濃の平地を歩くと思っていたが、傾斜のきつい坂の上り下りが中津川まで繰り返される道であった。
日本橋から数えて45番目の宿場である中津川宿は、飛騨街道との分岐点にあたる交通の要衝で、物資の集散地として栄えたという。 現在は宿場の面影は薄れ、新しい街並みに変わってしまったが、枡形の周辺には卯建を持つ古い家並みが残されている。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
---|---|---|---|---|---|---|
2020年 11月4日 |
三留野宿~妻籠宿 | 1里15町 | 5.6Km | Map | GPS | 22,419歩 |
妻籠宿~馬籠宿 | 2里 | 7.9Km | ||||
2020年 11月5日 |
妻籠宿~落合宿 | 1里5町 | 4.5Km | Map | GPS | 33,629歩 |
落合宿~中津川宿 | 1里 | 3.9Km | ||||
中津川宿~大井宿 | 2里18町 | 9.8Km | ||||
合 計 | 2里21町 | 31.7km | — | — | 56,048歩 | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 28日目) |
87里27町 | 344.6Km | — | — | 604,565歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
新旧中山道を見比べる
落合宿を出ると、やがて急坂を上る。 「向坂」と名が付いているようだが、坂の途中で振り返ると、馬籠宿から下ってきた山の斜面が見える。 左から下がる山の稜線鞍部のあたりが、馬籠からの新茶屋付近 つまり十曲峠のようだ。
坂を上りきり「おがらん橋」という名の橋で、現代の中山道(国道19号)を越える。 現代の中山道は、山を掘削して切通しを開き、傾斜を緩めて直線路にしている。
橋を渡った先に「おがらん神社」があり、木曽義仲の四天王の一人といわれた落合五郎兼行の館跡だという。
激坂「与坂」と与坂茶屋
自然石で作られた親柱を持つ横手橋。 よく見ると、親柱側面に「東 木曽東京方面・西 美濃京都方面」と刻まれた道標を兼ねている。
この付近の街道は、国道19号の敷設により分断されてしまった。 そのため少し回り道して地下道を潜り街道に戻ると、次は左右にうねりながら急坂が続く「与坂」である。
アスファルトの坂道は、馬籠峠のような山道を上るより単調なのできつい。 なんとか登りきると、与坂立場跡の越前屋が現れる。 米粉の餅に黒砂糖をかけた三文餅が名物で繁盛したそうだ。
そして与坂立場跡の先からは、超ド級の坂道が現れた。 下り坂だから良いが、上から石ころを投げれば、コロコロと転がり落ちるのではと思うような坂である。
三五沢集落と子野の石仏群
超急坂を下り三五沢の集落に入り、三五沢橋を底に再び上り坂となる。 途中で振り返ると、集落の中を左右にくねる道は、いかにも旧道といった趣がある。
子野の一里塚跡や馬頭観音を見ながら、槇坂の急坂を上る。 「また坂か・・・」と思いながら上り詰めると、木曽御嶽講の開祖である覚明を祀る覚明神社。 境内には講の記念碑が数多く立つ。
この覚明神社を頂点にすぐに下り坂となり、中津川市街を望みながら曲がりくねった道を下り、子野の集落へと入って行く。 そして子野川に架かる橋を渡ると、またまた上りに転じ、子野地蔵堂石仏群の枝垂れ桜が迎えてくれる。
往時はこの付近に地蔵堂があったとされ、近辺にあった庚申塔や観音像などの石塔・石仏が集められたという。
慈母観音が祀られていた。 子供が無事生まれ育つことを祈り、多くの村人が手を合わせたことだろう。
上金集落と虫歯を治す観音様
子野の石仏群の先で地蔵堂橋を渡り、坂を上り返して地下道を使って国道19号を横断する。 横断した先は上金集落で、秋葉山常夜灯や尾州白木番所改跡などを見て進む。
旭ヶ丘公園には 安永8年(1779)建の「径王書写塔」や「石仏三井寺観音」がある。 この観音様の姿から「歯観音」とも呼ばれ、歯痛を治す仏と云われているそうだ。 瀬戸内海の岡村島を訪れた時、同じような姿をした「歯痛地蔵」が祀られていたことを思い出した。
茶屋坂から中津川宿
旭ヶ丘公園のすぐ先から茶屋坂の急坂を下る。 つづら折れとなった茶屋坂を下り、歩道橋や階段を使って下りきると、中津川宿の高札場が復元されている。 往時この茶屋坂付近で、飛騨街道と交わっていたようだ。
元禄年間創業という、和菓子の老舗「すや」。 元は酢屋だったというが、現在は「栗きんとん」で有名だという。 中津川は栗きんとんの発祥の地だそうだ。
お土産として栗蒸羊羹と栗きんとんの詰め合わせを購入。 栗きんとんといえばお正月のおせち料理。 正月でもないのにお土産で売ってるのかと思っていたが、まさかの和菓子でびっくり!
新町付近の町並み。 この付近は宿場の雰囲気は殆どない。
街道から細い路地を入ると、長州藩士・桂小五郎(木戸孝充)が、藩主・毛利慶親を待つ間に隠れていたという料亭がある。 ここで桂小五郎は尊王攘夷を唱え、藩を討幕派へと変えさせた。
中山道歴史資料館や本陣跡の先に、中津川庄屋の家であった曽我家が建つ。 江戸時代は肥田家が庄屋を務めたが、明治期に曽我家が移り住んで、中津川で最初の医院を開業したそうだ。 本卯建を持つ大きな家は、往時の庄屋の屋敷を偲ばせてくれる。
卯建の競演
街道は横町で2つの枡形を作っている。 1つ目の枡形を曲がると、卯建を上げた商家が並び、往時の豊かな中津川宿を彷彿とさせてくれる。
天保13年(1842)築の白木屋。 中2階には4畳ほどの隠し部屋があり、外から梯子を掛けて上り、梯子を外して収納すると、外からは部屋のあることが判らないという。
2つ目の枡形を右折すると下町に入る。 枡形正面には、慶長6年(1601)創業の銘酒恵那山の老舗蔵元 ・はざま酒造である。
枡形を曲がって、はざま酒造を振り返る。 正面の卯建は、電柱を避けるように少し曲がっている。
はざま酒造のすぐ先に常夜灯が立つ。 この常夜灯の裏手に入る細い路地がかつての街道だが、すぐ先は行き止まりである。 また高札場もこの付近にあったそうで、中津川宿の京方出口である。
中津川宿は枡形付近に宿場の雰囲気を良く残し、特に卯建を上げた豪壮な家並みは見応えがある。 関東から信州を抜けて美濃路に入ると、街道沿いの家並の感じがどことなく西日本ぽくなってきたような気がする。
それにしても落合から中津川にかけての街道は、山襞をつくる尾根を次々と越えるように、上り下りが繰り返す道であった。
京都まで200Kmを切ったが、まだまだ遠い。 大井宿目指して、もう少し先に進もう・・・