旅行日:2020年11月5日
馬籠宿で1泊した翌日、快晴の中を美濃路への第一歩を踏み出し、落合宿から中津川宿、大井宿を目指して歩く。
美濃路は濃尾平野の32里(128Km)を16の宿場で結び、美濃16宿と呼ばれていた。 しかし馬籠宿を含む山口村が、岐阜の中津川市と合併したことにより、最近は美濃17宿とも呼ばれている。 だが中山道を歩く場合、従来通り馬籠宿までは木曽路で、美濃路を16宿として考え、美濃路の最初の宿場を落合宿とすることにした。
落合宿は日本橋から数えて44番目の宿場。 本陣、脇本陣が各1軒、旅篭14軒の、美濃の東の玄関口というべき小さな宿場だった。 しかし2度の大火に見舞われ、あまり古い家並みは残されていないが、本陣やわずかに残る格子のある町家などで、旧街道の面影を偲ぶことができる。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
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2020年 11月4日 |
三留野宿~妻籠宿 | 1里15町 | 5.6Km | Map | GPS | 22,419歩 |
妻籠宿~馬籠宿 | 2里 | 7.9Km | ||||
2020年 11月5日 |
妻籠宿~落合宿 | 1里5町 | 4.5Km | Map | GPS | 33,629歩 |
落合宿~中津川宿 | 1里 | 3.9Km | ||||
中津川宿~大井宿 | 2里18町 | 9.8Km | ||||
合 計 | 2里21町 | 31.7km | — | — | 56,048歩 | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 28日目) |
87里27町 | 344.6Km | — | — | 604,565歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
馬籠から落合宿へ
坂の町である馬籠宿を出ると、さらにダラダラと石屋坂の下りが続く。 坂の向こうに、こんもりとした竹藪の馬籠城跡が見えてくる。
馬籠城址。 小牧長久手の戦いで、島崎藤村の先祖が豊臣方についてこの城を守ったが、徳川方の大群に恐れをなして妻籠城へ逃れたという。
馬籠城址の先にある諏訪神社。 島崎藤村の小説「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルと云われる、藤村の父親・島崎正樹の碑がある。
荒町の集落。 のどかな街道を進む。
街道脇に佇んでいた男女双体道祖神。 ふっくらとした頬を寄せ、手を握り合ったほのぼのとした姿をしている。
大変見晴らしの良い「子規公園」 美濃の平地が広がり、正面に笠置山を遠望する。
信州サンセットポイント100選に選ばれている。 すでに岐阜県であるが、昔はこの先の新茶屋までが長野県だったので、そのまま信州の名が残ったのだろう。
十曲峠と新茶屋
明るくのどかで、気持ち良い街道歩きを楽しみながら、新茶屋まで歩を進める。 往時はもう少し南に立場があり、江戸末期に現在の地に移転したので新茶屋と呼ばれるようになった。
芭蕉の句碑が立つ。 「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 」と彫られているが、「穐」は「あき」と読むそうだ。
十曲(じっきょく)峠の頂にある新茶屋は、 平成17年までは長野と岐阜の県境で、更に遡れば信濃と美濃の国境で、木曽の北入口であった。 そのため、ここには「是より北 木曽路」の碑が立ち、贄川宿手前にある「是より南 木曽路」の碑と対をなしている。
すぐ先には日本橋から83里の新茶屋一里塚が現存する。 十曲峠の頂といっても、馬籠側から来ると緩やかな上り下りが続くだけで、とても峠とは思えない場所である。
落合の石畳
新茶屋一里塚の先から石畳に入る。 この石畳は平成17年に長野の山口村と、岐阜の中津川市の合併を記念して整備された新茶屋遊歩道(120m)であるが、車道を横断するとその先に落合旧道の石畳が続いている。
十曲峠の名のごとく、くねくねと曲がる石畳。 かつてここを歩いた旅人の気持ちを感じながら、苔むした石畳を踏みながら下っていく。 石畳は840mあり、その中に江戸時代の石畳が3ヵ所残っているという。
途中に「山のうさぎ茶屋」と看板を掛けた店があったが、営業している様子はない。
山道を一気に下り平地へと・・・
落合の石畳を抜け、のどかな山村風景の中を進むと、医王寺の大きな枝垂桜が迎えてくれる。
医王寺は山中薬師とも呼ばれている。 狐膏薬が有名で、子供の虫封じ薬師としても信仰が厚く、三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つだそうだ。
医王寺を過ぎると、遠く高峰山を望みながら、落合川を目指して急坂を一気に下っていく。
坂道を下り終えると、落合川にかかる下桁橋である。 木曽路の狭い谷間を抜けてきた旅人にとって、ここでやっと平地に出たと感じる場所である。
逆に京から江戸に向かう場合、ここから本格的に山道に入ることになる。 下桁橋を渡り急坂を上り、さらに石畳を上って行けば、十曲峠という名にふさわしい峠道であることが実感できるだろう。
下桁橋を渡った先にある石仏群。 ここにあった説明版によると、下桁橋から新茶屋に至る十曲峠の道は、つづら折れの難所であったため、何度か付け替えられたと説明されていた。
落合宿
日本橋から数えて44番目の宿場で、美濃路の東の玄関口である。 小さな宿場で、あまり特徴のある宿場ではない。 しかしここで地元の方と話をする機会を得、面白い話を聞くことができた。
落合宿入口高札場跡。 道路の反対側に標柱のみが立つ。 遠くの赤い橋は、中央自動車道。
江戸方の枡形には、秋葉様の常夜灯が立つ。 宿場内には4基あったが、道路整備のため3基は移設され、この常夜灯も道の片隅に追いやられたそうだ。
秋葉様は火坊(ひぶせ)の神である。 この秋葉様が祀られたのは寛政4年(1792)とあったが、その後2度の大火に遭っている ・・・
落合宿本陣だった井口家。 文化元年(1804)の大火で焼失したが、その後 加賀前田家から贈られた本陣の門が残る。
大きな「助け合い大釜」が街道脇に据えられている。 1000リットルを超える釜で、寒天の原料である天草を煮ていたが、現在は落合宿の祭りでキノコ汁を作り、多くの人に振る舞うという。
道路の上を覆うように松が茂っている。 善昌寺の山門を覆っていたので「門冠の松」と呼ばれていたが、現在は「路上の松」と、そのものズバリの名で呼ばれているそうだ。
善昌寺の前で街道は直角に曲がり、落合宿京方出口の枡形となっている。
この落合宿を歩いている間に、同じような街道歩きのスタイルをした男性と出会い、「こんにちわ」と挨拶をして話をした。 落合に住む地元の方で、健康のため馬籠宿まで往復歩いているそうだ。 この方が高校の頃のアルバイトで、車に食糧品や雑貨を積んで馬籠宿へ売りに行く手伝いをしたという。 当時の馬籠宿は本当に貧しく、品物を買ってもお金を払えない家があったが、その後の高度成長時代に大きく様変わりし、今は昔の面影は無いと話してくれた。
上野国の坂本宿から碓氷峠を越えて信濃の国に入り、その後和田峠、塩尻峠、鳥居峠、馬籠峠といくつもの峠を越え、やっと木曽谷を抜けた。 しかし まだまだ京は遠い・・・