旅行日:2019年11月2日
須原宿を出て、次の野尻宿を目指して歩く。 野尻宿は外敵を防ぐため、宿場内の道を左右にうねらせた「七曲り」と呼ばれる道が特徴である。
明治27年(1894)の大火で大半を焼失したそうだが、映画「男はつらいよ」のロケ地にもなったそうで、どのような宿場風景を見せてくれるのか楽しみである。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
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2019年 10月31日 |
藪原宿~宮ノ越宿 | 1里33町 | 7.5Km | Map | GPS | 26,119歩 |
宮ノ越宿~福島宿 | 1里28町 | 7.0Km | ||||
2019年 11月1日 |
福島宿~上松宿 | 2里14町 | 9.4Km | Map | GPS | 29,331歩 |
上松宿~倉本駅 | 3里9町 | 12.8Km | ||||
2019年 11月2日 |
倉本駅~須原宿 | Map | GPS | 21,329歩 | ||
須原宿~野尻宿 | 1里30町 | 7.2Km | ||||
合 計 | 11里6町 | 43.9Km | — | — | 76,779歩 | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 25日目) |
77里4町 | 302.8Km | — | — | 527,232歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
須原宿を出発
須原宿の「鍵屋の坂」を下り、少し進むと須原宿碑が立つ。 須原宿の出口である。
長坂を上る
須原宿碑を過ぎると、ダラダラと続く上り坂に入る。 その名も「長坂」で、途中で中央線の踏切を渡る。
更に長坂を上り、途中で後ろを振り返る。 奥に小さく顔を出しているのは木曽駒と思えるが、手前は三沢岳だろうか?
のどかな街道を歩く
長坂を上がりきると街道は大きく左に向きを変え、木曽川と離れて橋場集落へと入っていく。 木曽川に流れ込む伊那川を、越え易い場所へと迂回しているのだろう。 しばらくのどかな街道歩きが続く。
岩出観音
橋場集落で街道から少し右に入ると、山の中腹に木組みの舞台を持つ岩出観音がある。 街道を少し進んだ伊那川橋から、綺麗に岩出観音を眺めることができる。
かつての伊那川橋は木曽の三大橋の一つに数えられ、橋杭の無い刎橋(はねばし)が架けられ、英泉の浮世絵「伊奈川橋遠景」の背後には岩出観音も描かれた。
木曽川を迂回
大島集落に入ると街道は左に折れ、のどかな街道風景を楽しみながら歩くことができる。 地図を見ると不自然に木曽川を大きく迂回している。 もともと中山道は木曽川近くを通っていたが、元禄年間の崩壊で山側に迂回する新道が整備されたそうだ。
天長院と「マリア地蔵」
左に天長院が見えてくる。 「マリア地蔵」と呼ばれる石仏があるというので立ち寄ってみる。
子供を抱いた「子育地蔵」だが、子供を抱く紐が十字架に見えることから「マリア地蔵」と呼ばれているそうだ。
良く判らないので、さらに拡大してみる。
十字といえば十字だが・・・ 木曽の山奥にキリシタンが隠れ住んでいたのだろうか??
弓矢集落
街道沿いには水舟も置かれ、須原宿と同様に湧水に恵まれているようだ。
弓矢の集落には立場茶屋が3軒あったと云われ、間の宿として駄賃荷物の交換所ともなった。 現在もJR大桑駅や役場が置かれ、この地の中心である。
味わいのある看板である。 写真では見えないが、左側には「月星地下タビ、月星靴・ゴム靴」と書かれている。
大桑一里塚 木曽義仲四天王と呼ばれた武将の子孫に出会う
国道に合流し、駅と反対方向に下って大桑一里塚に足を伸ばした。 日本橋から76里で、初期中山道のルート上にあるそうだ。
一里塚を探してウロウロしていると犬に吠えられ、不審に思った家人が表に出てきたので場所を聞いてみた。
場所を示しながら、「一里塚は私の土地の中にあり、我家で管理している。 先祖は木曽義仲の家来だった今井兼平で、歴史好きだった爺さんが一里塚に石碑を建てた。 是非見て行ってください。」と、驚くような説明をしてくれた。
一里塚に建てられた石碑を見ると、「弓谷家元祖 今井四郎兼平公」「木曽義仲公四天王」などが刻まれている。
「今井四郎兼平」の名は、洗馬宿の「あふたの清水」の由来にも出てきた。 更に調べると、「巴御前」は妹だそうだ。 また「弓谷家」となっているが、地名の「弓矢」と何か関係があるのだろうか?
今井四郎兼平が、木曽義仲と共に活躍した時代は平安末期。 900年近く代々続く家系なのか? もっと色々と話を聞いてみたかった・・・
関所跡はモーテルか?
木曽義仲が関所を置いたという「関山関所跡」が国道横に現れる。 「現れる」といっても、廃業したようなレストランとホテルらしき建物である。
廃墟化したホテル裏手の草むらには旧道跡が残るという。 しかしそれ以上に興味深いのは、「関所跡 モーテル?」と彫られた石碑である。
最後の一文字は判読不能。 関所がモーテルに・・・ 面白い話だが、この石碑は意味深である。
中央線の踏切を越え、倉坂を上ると野尻宿入口である。
野尻宿
日本橋から40宿。 この宿場の特徴は、街道を左右にうねらせた「七曲り」の道である。 道をうねらすことにより、外敵が先を見通せないようにして侵入を防いだそうだ。 明治27年(1894)に宿の大半を焼失し、昔の面影は少ない。
しかし映画「男はつらいよ フーテンの寅」の第22作「噂の寅次郎」のロケ地となったそうである。
高札場跡と「いぼ石」
倉坂を上がると道は直進するが、これは新道。 旧道は左に曲がり、すぐに右折して野尻宿に入っていく。
「南無妙法蓮華経」と彫られた大きな石碑が立つ。 この石碑の台石は「いぼ石」と呼ばれ、イボを箸で掴んで台石に置く仕草をすると、イボが取れると伝わる。 ここには高札場も置かれていた。
本陣跡
明治天皇御小憩所の碑が残る本陣跡。 森家が問屋を兼ねて本陣を勤めていたが、明治27年の大火で焼失した。
野尻宿 街道風景
「おくや」という昔ながらの看板が軒先に吊るされる。 居酒屋である。
現在は廃業となった旅館庭田屋。 宿場の雰囲気漂う建物で、「フーテンの寅」の映画では、寅さんが宿泊したという。
宿場内の道は緩やかに左右にうねり、宿場の雰囲気を醸し出している。
柿のようなものが藁に包まれている。 上に飾りがついているので、何かの縁起物なのだろうか?
旧家・西村家。 宿場の西のはずれに位置していたことから、屋号は「はずれ」だそうだ。
野尻駅
野尻宿の「はずれ」まで歩いて野尻駅へ引き返す。 今回はここで終了として、塩尻経由で帰路に着いた。
明治期の大火で、宿場の大半を焼失したという野尻宿。 しかし宿場内を緩やかに蛇行しながら続く細い街道は、趣のある宿場風景を作りだしていた。
映画「フーテンの寅」の22作目「噂の寅次郎」では、野尻宿だけでなく、須原宿の定勝寺なども訪れているようだ。 この時のマドンナ役は「大原麗子」ということで、たぶん見たことはあると思うが、まったく記憶にない。
山田洋二監督は、スクリーン上に木曽路の風景をどのように切り取ったのか、DVDでも借りて見てみよう。