旅行日:2020年11月4日
南木曾駅から歩き始め、妻籠城址を過ぎると妻籠宿はもう近い。
明治25年(1892)に馬籠峠を迂回する道(現国道19号)が開通し、妻籠・馬籠の両宿は取り残された。 更に明治42年に名古屋・三留野間に鉄道が開通し、三留野が周辺の交通拠点となり、妻籠は一層寂れることになった。
しかし昭和40年代の高度成長期に、歴史的景観の街並みを守る運動に取り組み、 昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、宿場の趣きを色濃く残す有数の観光地へと生まれ変わった。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
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2020年 11月4日 |
三留野宿~妻籠宿 | 1里15町 | 5.6Km | Map | GPS | 22,419歩 |
妻籠宿~馬籠宿 | 2里 | 7.9Km | ||||
2020年 11月5日 |
妻籠宿~落合宿 | 1里5町 | 4.5Km | Map | GPS | 33,629歩 |
落合宿~中津川宿 | 1里 | 3.9Km | ||||
中津川宿~大井宿 | 2里18町 | 9.8Km | ||||
合 計 | 2里21町 | 31.7km | — | — | 56,048歩 | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 28日目) |
87里27町 | 344.6Km | — | — | 604,565歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
妻籠宿に入る
妻籠や馬籠は、中山道のハイライト区間として観光客、特に海外からの観光客が多く訪れている。 しかし今年は新型コロナウィルスの影響で観光客は少なく、静かな宿場風景を楽しむことができた。
妻籠城址から下って、恋野という集落を左右にカーブしながら街道を進む。 そしてカーブを曲がると「大吉」という宿が現れ、妻籠宿の東の入口に到着である。
「鯉岩」と呼ばれる巨岩。 鯉が滝登りをしているような姿をした石で、木曽路名所図会にも描かれていたが、明治24年(1891)の濃尾大地震で頭部が落ちてしまったそうだ。
江戸後期に建てられた長屋の一部である熊谷家住宅。 内部が公開され、当時の農機具や生活用品など、往時の生活を偲ぶことが出来る。
口留番所跡から街道を望む。 口留番所とは、通行人や物資を監視する小さな関所のようなもので、このような目線で睨みをきかせていたのだろう。
下町から枡形までの町並み
恋野の坂を下ると、妻籠宿の下町である。 この下町から枡形までの間が妻籠宿の中心で、本陣や脇本陣が置かれている。
恋野の坂上に立つ高札場より、妻籠宿の下町を眺める。
坂の途中にある水車から高札場を見上げる図は、妻籠宿の定番写真スポットのようである。
平日12時頃の妻籠風景である。 外人客はもちろんのこと、日本人観光客も少なく、静かな宿場風景を楽しめた。
「書状集箱」と書かれた黒いポストが立つ妻籠郵便局。 江戸時代の目安箱を模しているようだ。
枡形付近の観光案内所。 江戸時代ではなく、明治の頃の洋風建築のようである。
脇本陣奥谷 光のシャワーが降り注ぐ
脇本陣・問屋を代々務めた林家(奥谷は屋号)は、昭和8年まで酒造業を営んでいた。 島崎藤村の小説「初恋」のモデルとなった女性「ふゆ」の嫁ぎ先で、明治13年には明治天皇巡行の際の小休所となり、裏には歴史資料館も立つ。
土間から上がり囲炉裏の間を見ると、扇状に広がって降り注ぐ見事な光芒に目を奪われた。 しかしコロナ対策で写真撮影は禁止されていた。 時と共に移り行く光芒を撮るため、長居するカメラ好きが多いのだろう。
客は私一人だけだったので、案内の女性に「1枚だけ写真撮らせて・・・」とお願いしたが、やはり断られてしまった。 その代わりにと頂いたパンフレットから借用した写真である。
格子から差し込む光は、天候だけでなく、季節や時間帯などいくつかの条件が揃ったときに見られるそうだ。 要するに陽が低くなった冬至前後の季節の昼頃が、差し込む陽が一番長くなり美しいとのこと。 偶然の産物か または計算して作られたのか? まさにプレミアムな光景である。
参考までに、訪れたのは11月4日の12時半頃で、実際に目にすることが出来たのは幸運であった。
妻籠宿本陣 島崎藤村の母の実家
本陣と庄屋を兼ねて務めた島崎家は、 文豪・島崎藤村の母「ぬい」の実家である。 「ぬい」は、隣の宿場である馬籠宿本陣の島崎家に嫁ぎ、そこで誕生したのが島崎藤村である。
明治維新後の宿駅制度廃止により、明治32年(1899)に建物は取り壊されたが、島崎家が所蔵していた資料を基に、平成7年に復元された。
大名などを迎えた上段の間も復元されている。
枡形付近の景観
妻籠宿の中央に設けられた西の枡形で、右に下る石畳が旧道である。 枡形を曲がった所には、木曽谷の特徴である石置き屋根がよく見える。
枡形の先に建つ「松代屋」。 創業は文化1年(1804)で、元は木賃宿であった。 石段を上がった先が、寺下の町並みである。
「寒山拾得」という石仏が祀られている。 双体道祖神のような2人の人物が彫られているが、昭和59年(1984)の長野県西部地震で崩れた石垣から発見され、道祖神の一種と考えられているそうだ。
寺下から尾又への町並み
枡形を抜けると寺下の町並みが続く。 左手の高台に光徳寺があり、この寺の下なので「寺下」なのだろう。
藁で柿を包んだものが吊るされている。 昨年11月に野尻宿でも、同じようなものを見た。
自宅に戻り調べると、渋柿を皮を剥かずに藁でくるみ、甘く熟すのを待つ「つとっこ」というもので、秋の風物詩だそうだ。
上嵯峨屋は昔の木賃宿の雰囲気を今に残している。 木賃宿とは食料持参の自炊が基本で、薪代 つまり木賃を支払う庶民向けの宿である。
コンビニもない時代、どのような食料を持ち歩いて旅をしていたのだろうか?
妻籠宿の外れまでくると、アールデコ調の妻籠発電所の建物が立つ。 妻籠宿の景観に合わせた、黒い木製の塀に囲まれている。
藁で作られた大きな馬が飾ってある。 藁馬の実演販売のお店のようだ。
国道256号にぶつかると妻籠宿とお別れである。 お土産屋などを営む方には申し訳ないが、思っていた以上に人が少なくて、ゆっくりと楽しむことができた。
次は木曽路を代表する妻籠・馬籠の2大宿場を結ぶ、秋の馬籠峠越えを楽しんで、木曽路最後の宿場である馬籠宿を目指そう。