中山道 第56宿 赤坂宿(1) 呂久川は流れを変えて揖斐川へ

赤坂宿

旅行日:2022年6月10日

前日は加納宿から美江寺宿を目指して歩いたが、美江寺の手前を走る樽見鉄道で歩きを止め、鉄印を貰いに”本巣”という駅に寄道した。 そして そのまま樽見鉄道で大垣に戻り、大垣市内を探訪して市内で一泊した。

翌日、再び樽見鉄道で美江寺に戻り、美江寺宿から赤坂宿を経て垂井宿を目指して歩きはじめる。 この日のコースは、小学校か中学の社会科で学んだ記憶がある「輪中」を通る。 周囲を土手に囲まれ、遠くまで見通すことが出来ない狭い地域が、点々と島のように散在する景観を想像していたが、実際に訪れてみると・・・

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コースデータ

  • 日 付  :2022年6月10日
  • 街道地図 :美江寺宿~赤坂宿~垂井宿
  • 宿間距離 :美江寺宿~赤坂宿  2里8町(8.7Km)
  •      :赤坂宿~垂井宿   1里12町(5.2Km)
  • 日本橋から:累計111里10町(437.0Km)
  • 万歩計  :29,173歩

※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図

美江寺宿を出発

前日歩きを止めた樽見鉄道の美江寺駅。 1両編成の典型的なローカル鉄道である。

美江寺駅

美江寺宿の探訪記は下記の記事にまとめたので、この記事では割愛させていただく。

中山道 第55宿 美江寺宿 樽見鉄道「鉄印」求めて寄道する
河渡宿から美江寺宿を目指して歩いたが、美江寺宿手前を走る樽見鉄道で歩みを止めた。樽見鉄道の鉄印を得るため、本巣駅へと寄道するためである。翌日再度樽見鉄道美江寺駅から中山道歩きを再開。美江寺宿をゆっくり見て、次の赤坂宿へと向かった。

 

美江寺宿の京方出口。 分岐には道標が立ち、「左 大垣墨俣ニ至ル 右 大垣赤坂ニ至ル」と彫られ、ここを右に曲がり赤坂宿に向かう。 左に進めば、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が一夜にして築いたという墨俣城である。

美江寺宿

揖斐川に向けて歩く

美江寺宿を出ると、左右に水田が広がる中を揖斐川目指して進む。 往時はこの揖斐川はなく、昭和初期にもう少し西を流れていた呂久川を改修し、現在の揖斐川に流れを付け替えたという。

千手観音堂と千躰寺

美江寺を出るとすぐに千手観音堂があり、天保4年(1833)造立という大きな千手観音が祀られている。 この日の旅の無事を祈願して、赤坂宿に向けて出発する。

千手観音堂

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけ、美江寺宿で没した禅僧自然居士(じねんこじ)が作った、高さ12~23Cmの阿弥陀如来立像千体が安置されている。

千躰寺

学校の校庭に消えた中山道

犀川に沿って続く中山道を進むと、やがて正面に長護寺川にぶつかる。 昔の街道は長護寺川をまっすぐ渡り、現在の巣南中学校の敷地の中へと続いていた。 現在の道は川に沿って右にカーブし、朱色の欄干の長護寺橋を渡る。

旧中山道

学校の敷地に消えた街道は校門のあたりに続いていたようで、校門の向かいにある大月浄水場公園には石畳が整備されて中山道が復活している。

旧中山道

案内版によると、この付近は見事な松並木が続いていたとあるが、現在は見る影もなく消滅してしまった。 しかし戦前の松並木は街道らしくて良いが、松の木が少し細いような気がする。

旧中山道

揖斐川へ

大月浄水場公園を出ると、街道は左右に広がる水田の中を、揖斐川に向けてまっすぐ伸びている。

旧中山道

やがて揖斐川の土手にぶつかり、左に曲がり鷺田橋で揖斐川を渡る。 かつては揖斐川はここには無く、街道はまっすぐ呂久の集落に伸び、呂久川を渡し舟で渡ったという。 しかし大正14年に呂久川を改修し、現在の揖斐川へ流れを付け替えたという。

揖斐川

小簾紅園と呂久の渡し跡

鷺田橋で揖斐川を渡ると、呂久の集落である。 かつて流れていた呂久川東岸の渡し場として賑わったが、河川付替え工事で現在の揖斐川へ流れが変わると、呂久は揖斐川の西岸と変わった。

かつて呂久川が流れ、渡しで賑わっていた頃には船頭屋敷が13あったという。 その中の舟年寄りを務めた馬淵家の長屋門が残る。

馬淵家長屋門

小簾紅園

小簾紅園で”おずこうえん”とよむ。 文久元年(1861)10月20日に京を発った皇女和宮は、同26日呂久川を御座船で渡る際、対岸の紅葉したモミジを一枝所望され「おちてゆく 身と知りながら もみじはの 人なつかしく こがれこそすれ」と詠んだ歌碑が立つ。

往時の呂久川は、この小簾紅園の先を流れていた。 道路をよく見ると、何となく先の方が凹んで見えるが、往時の呂久川跡だろうか?

小簾紅園

小簾紅園の西側出口には「揖斐川呂久渡船場跡」の石柱が立つ。 周りには大きな川もないので、知らなければ「何でこんなところに?」と疑問に思うような石柱である。

小簾紅園

渡し場があった所には、狭い用水路が流れる。 往時の呂久川の埋め残しだろうか?

小簾紅園

大垣輪中

木曽川・長良川・揖斐川といった木曽三川が集中する濃尾平野。 三川以外にも多くの中小河川が流れ、昔から水害に悩まされてきた。 そこで集落の周りに堤を築き、家屋や田畑を水害から守ったものが”輪中”である。 中山道は「大垣輪中」と呼ばれる大きな輪中の中を進む。

大島堤を行く

平野井川を渡ると高い土手にぶつかる。 瑞穂市と大垣市の境となる大島堤である。 この大島堤は大垣輪中の堤で、呂久川(現揖斐川)の洪水から大垣を守る役目だそうだ。 土手上には 「右すのまた宿道 左木曽路」の道標が立つ。

墨俣追分道標

土手から少し離れ、平野井川を渡って神明神社に向かう。 ここには日本橋から109里の柳瀬一里塚跡碑が立つ。 現在は大島堤と一里塚の間に平野井川が流れるが、この平野井川も流路を変えたのだろうか?

柳瀬一里塚跡

再び大島堤に戻り中山道標識に従って進む。 途中に「大垣輪中 坂下水防倉庫」と書かれた倉庫が現れた。 我が家の近くでは地震に備えた防災倉庫であるが、さすがにこの付近は洪水対策がなされている。

大垣輪中

大島堤に別れを告げ、街道は左へ曲がる。 この曲がり角には 「中山道三回り半」と彫られた道標が立つ。 京に向かって三つの曲がりと小さな曲がりが一つあるという意味らしい。

大島堤

「中山道三回り半」の道標が立つ曲がり角が一つ目で、二つ目のカーブの所に「素盛鳴社」と名のついた小さな社が祀られていた。 何と読むのか判らなかったが、自宅に戻って調べると「すさのお」と読むことがわかった。

素盛鳴社

中山道七回り半

三津屋の集落を抜け左右が開けてくると、次に「中山道七回り半」と彫られた道標が現れた。 先ほどは「三回り半」であったが、今度は「七回り半」と倍近く曲がりを繰り返すようである。

七回り半石碑

「七回り半」の石柱が立つ場所が最初の回りだとすると、三番目の回りは、大きな道路に面して建つアパートの裏手に回り込んでいる。

旧中山道

そして最後の回りの角には、加納薬師への道標を兼ねたお地蔵様を祀るお堂が立ち、横には同じく加納薬師への道標が立つ・

地蔵堂

回りの数を数えながら歩いたが、6つで終わってしまった。 自宅に戻り地図を眺めたが、やはり6回りにしか見えない。 また真っ平で何もない所に、なぜクネクネと曲がった街道を作ったのだろうか?

赤坂宿入口

やがて近鉄養老線の踏切へ。 右手には東赤坂の駅があり、赤坂宿はもう近い。

近鉄養老線

踏切を渡り、左に曲がって菅野神社へ。 奈良時代に百済国王の末裔が祖先を祀ったことが始まりと伝わる。

菅野神社

右手に白山神社が現れると、その前に日本橋から110里の池尻一里塚跡の石碑が立っていた。 Web上にある中山道の記録を見ると、もう少し先に立っていたが、どうも移動したようである。

池尻一里塚跡碑

杭瀬川に架かる赤坂大橋の手前で県道417号と合流するが、この合流点は美濃路との追分で、「左なかせんどう 右おおがき道」の道標が立つ。

杭瀬川を渡ると、日本橋から第56宿目の赤坂宿である。

杭瀬川

 

昔の城は周囲を堀や土塁で囲み、敵の侵入を阻んでいた。 この城のお堀と同じ程度の規模で輪中は作られているものと思っていた。 しかし今回初めて輪中の中に入ったが、今まで抱いていた「輪中」のイメージとは大きく異なることを知った。

途中にあった大島堤を越え、大垣輪中の輪の中に入った筈である。 しかし輪中の外に出る堤を越えた覚えがない。 まだ輪中の中にいるのか? 輪中の土手は、思っていた以上に広大な面積を囲っているようである。

杭瀬川を渡ると赤坂宿だが、赤坂宿探訪記は次のページで・・・

 


 

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