中山道 第56宿 赤坂宿(2) 「お嫁入り普請」で見栄を張る

赤坂宿

旅行日:2022年6月10日

中山道56番目の宿場町「赤坂宿」は、江戸末期に幕府の公武合体政策として、皇女和宮が江戸へ降嫁した際に宿泊した地ある。 その宿泊直前には、宿場があまりにみすぼらしいため、街道沿いの古家の建て替えや空地に新築を行い、54軒もの家を建て直したという。 それも街道からの見栄えを良くするため、表側だけ2階建てにしたという。 これが世に聞く「お嫁入普請」である。

この話を知った時に頭に浮かんだことは、2008年の北京オリンピック。 会場への道路沿いの汚れた建物の外装を塗り替え、雑然とした家並は壁を作って隠し、その壁に現代的な建物の絵を描いてごまかしたそうである。

「いかにも中国らしい」と笑ってしまったが、何と100年以上前に、日本でも似たようなことを行っていたということである。

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コースデータ

  • 日 付  :2022年6月10日
  • 街道地図 :美江寺宿~赤坂宿~垂井宿
  • 宿間距離 :美江寺宿~赤坂宿  2里8町(8.7Km)
  •      :赤坂宿~垂井宿   1里12町(5.2Km)
  • 日本橋から:累計111里10町(437.0Km)
  • 万歩計  :29,173歩

※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図

赤坂宿江戸方入口

赤坂宿は古くから東山道の杭瀬川駅として機能していた。 江戸時代に中山道が整備されると、本陣・脇本陣・問屋場が置かれた宿場町として栄え、杭瀬川を利用した水運で賑わった。

赤坂宿御使者場跡碑

赤坂宿に入り、旧杭瀬川の手前に御使者場跡の標石が立つ。 参勤交代の大名が通る時、宿役人や名主が送迎した赤坂宿の江戸側入口である。

御使者場跡碑

赤坂港跡

赤坂宿手前に杭瀬川が流れるが、かつてはもっと西側の宿内を流れ、川幅も広く船が通っていた。 江戸時代は蔵米などを輸送。 明治になっても米や麦、菜種などを積み出し、名古屋や桑名からは海産物や油などを陸揚げしたが、昭和2年の河川改修で流れが変わり、赤坂港の役目は終わった。

細い流れとなった旧杭瀬川に赤い欄干の橋が架けられ、常夜灯と火の見櫓がそびえ立つ。

赤坂港跡

親水公園として整備された赤坂港跡。 今は見る影もないが、明治期には500艘を越える船が行き来したという。 その先に建つ洋館は赤坂港会館で、明治8年(1875)に中山道と谷汲街道の四ツ辻に建てられた警察屯所を復元した。

赤坂港跡

赤坂宿中心部へ

旧杭瀬川の赤坂港跡を後にして、赤坂宿の中心部へと入って行く。 宿場の中心部にある谷汲街道との四ツ辻付近は、歴史的な建物や史跡が集まり、宿場風情を色濃く残している。

赤坂本町駅跡

東海道線の支線の終点である美濃赤坂駅から伸びる、 西濃鉄道の貨物線踏切を渡る。 現在は金生山から産出される石灰を運んでいるが、昭和20年(1945)まで旅客列車も運行し、石垣のホーム跡が残されている。

西濃鉄道貨物線

四ツ辻付近

街道が不自然に曲がっている。 枡形のようであるが、赤坂宿の中心部となる四ツ辻である。 右に曲がると谷汲街道、左に曲がると伊勢に向かう養老街道である。 この四ツ辻手前右側にある旧清水家住宅は、綺麗に修復されているが、8世紀半ばに建てられた宿内最古級の建物だそうだ。

赤坂宿

四ツ辻には、 西国33番霊場谷汲山華厳寺に導く「たにくみ道道標」が立つ。

たにくみ道道標

四ツ辻の左角には、天保4年(1833)築の大きな矢橋家住宅が建つ。

矢橋家住宅

四ツ辻を京側から振り返る。

赤坂宿

レトロな駅舎の美濃赤坂駅へ

東海道線の支線である美濃赤坂線の終着「美濃赤坂駅」に向かう。 大垣から分岐し、僅か5Kmほどの盲腸線で、個人的には中山道赤坂宿に来たら絶対外せないスポットである。

赤坂宿の四ツ辻を左に曲がると、矢橋家住宅の蔵と思われる建物が100mほど続き、その敷地の広さに驚かされる。

矢橋家住宅

四ツ辻から300mほどで美濃赤坂駅に到着。 大正8年(1919)開業当時の駅舎が、味わい深い佇まいを見せている。

美濃赤坂駅

無人駅で切符の自販機も改札もない。   

美濃赤坂駅

美濃赤坂駅のホームは、金生山から産出される石灰を運ぶ西濃鉄道の広大な貨物ヤードの片隅に置かれている。 そしてガランとした貨物ヤードには、人は勿論 荷物さえ何もない。 殺風景というより、寂寥感とか茫漠という言葉の方が似合うような、独特のオーラを放っている。 

美濃赤坂駅 美濃赤坂駅

鉄オタではないが何かで美濃赤坂駅を知り、一度訪れたいと思っていた所なので、良いものを見せてもらった。 いつまでもこの雰囲気を残してもらいたいものだ。

お茶屋屋敷跡

美濃赤坂駅から街道に戻る途中、横道に入ってお茶屋屋敷跡に向かう。 徳川家康が上洛途中の休泊施設として築いた御殿跡である。

お茶屋屋敷跡 お茶屋屋敷跡

お茶屋屋敷は東海道や日光街道などにも造られたが、3代将軍・家光以降は上洛することが無く、また大名などは本陣に宿泊したことから、多くが取り払われた。 その中で赤坂宿のお茶屋屋敷跡は貴重な遺構だそうだ。

現在も見栄を張り続ける「お嫁入り普請」

お茶屋屋敷跡から、再び赤坂宿の四ツ辻に戻る。 四ツ辻角にあった矢橋家の隣が、脇本陣であった飯沼家である。

脇本陣・飯沼家

2階の袖壁部に「榎屋旅館」とある。 近年まで「榎屋」の屋号で旅館を営んでいたようだが、江戸時代には脇本陣を務め、現在も上段の間が残るという。

赤坂宿脇本陣

お嫁入り普請(旧増田家住宅)

皇女和宮が赤坂宿宿泊時、宿場の見栄えを良くするために表側だけを2階建てにしたお嫁入り普請。 現在は「お嫁入り普請探訪館」として公開されているようだが、残念ながら鍵が閉まっていた。

外装は手入れされているので古さは感じない。 現在も見栄を張り続けているようだ。

お嫁入り普請

赤坂宿京方出口へ

お嫁入り普請を後にして、赤坂宿の京方出口を目指して進む。 他のお嫁入り普請の家はないのかと、左右をよく見ながら進んだが、残念ながらそれらしいものは見られなかった。

八王子神社

街道から山側に入る路地を見ると、奥に八王子神社が鎮座している。

八王子神社

赤坂宿西町の町並み

京方出口に向けての西町も、旧街道にふさわしい町並みを見せている。

赤坂宿 赤坂宿

赤坂宿御使者場跡碑と兜塚

赤坂宿の西外れにある兜塚。 関ケ原合戦の前哨戦である杭瀬川の戦いで、東軍中村隊の武将・野一色頼母が討死し、その遺体と鎧兜を埋葬したという。

この兜塚の前に宿場の役人や名主が、参勤交代の大名を送迎した場所を示す御使者場跡碑が立つ。 赤坂宿の京方出口である。

兜塚

 

赤坂宿にある「お嫁入り普請」のようなことは、他の宿場では行われなかったのだろうか?

皇女和宮降嫁の大行列は、中山道の各所に騒ぎを巻き起こしながら進んだようだが、この赤坂宿は和宮狂騒曲の極致だったのだろう。 幕府から借金をしてお嫁入り普請を建てたが、間もなく幕府が倒れたので帳消しとなったようだ。 うまくやったな 赤坂宿・・・

 


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