中山道 第38宿 上松宿 中山道の三大難所「木曽の桟」

奈良井宿

旅行日:2019年11月1日

木曽福島で1泊した翌日、相変わらずの快晴に恵まれて歩を先に進める。

木曽福島で泊まった宿は、中山道を歩く外人ばかりであったが、これら外人は、馬籠から妻籠、奈良井などを中心に歩いているようだ。 そのため木曽福島から上松に向けて歩いていても、外人の姿を見ることは無かった。

日 付 区 間 里程表 計画路 GPS 万歩計
2019年
10月31日
藪原宿~宮ノ越宿 1里33町 7.5Km Map GPS 26,119歩
宮ノ越宿~福島宿 1里28町 7.0Km
2019年
11月1日
福島宿~上松宿 2里14町 9.4Km Map GPS 29,331歩
上松宿~倉本駅 3里9町 12.8Km
2019年
11月2日
倉本駅~須原宿 Map GPS 21,329歩
須原宿~野尻宿 1里30町 7.2Km
合 計 11里6町 43.9Km 76,779歩
日本橋からの累計
(累計日数 : 25日目)
77里4町 302.8Km 527,232歩

里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。

「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。

GPS  : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。


 

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福島宿を出発

宿をチェックアウトして、旧中山道の家並みが残る「上の段」を通って木曽福島の駅前に出る。 翌日の帰りの切符などを購入してから、この日の目的地である須原宿を目指して歩き始める。

木曽町役場

木曽町役場の入口で、中山道の案内標識に従って裏手に回るように右に進む。

木曽町役場

塩淵集落と塩淵一里塚跡

木曽町役場の裏手に回ると、草付きの細い坂道を下って塩淵の集落へ入っていく。

旧中山道

塩淵一里塚跡碑。「江戸より70里 京へ67里」と刻まれている。

塩淵一里塚跡碑

「塩淵」という地名は、「塩を馬の背中に乗せて運んでいた時、木曽川の淵に馬が転落して塩を撒いてしまった」ことが地名の由来と説明板に書かれていた。

木曽川取水ダム

県道から外れて旧中山道の長い坂を上がると、眼下にダムが見える。 下流にある寝覚発電所のための取水ダムだそうだ。

木曽川取水ダム

通れない旧中央本線中平トンネル

ネット上の中山道を紹介する記事では、この「中平トンネル」を歩いて通過した人が多い。 しかし残念ながら現在は通行止めとなっている。

旧中平トンネル

旧中央線の中平トンネル。 廃線・廃隧道マニアが喜ぶ代物である。 残念ながら通行不可なので、右の国道下をくぐり、階段で国道上に出る。

旧中平トンネル

木曽観光連盟発行の「信州木曽路 中山道を歩く」という小冊子では、この国道を「元橋」交差点まで歩くようにガイドしている。

しかし国道はなるべく避けたいので、途中で道路を渡って山中の小さな集落を通る道に入る。

旧中山道

トンネルからの道と合流した。 どうみても廃線跡である。

旧中山道

御嶽山が見えない遥拝所

神戸(ごうど)集落に入ると、御嶽山遥拝所がある。 昔はここから御嶽山を望むことができたそうだが、現在は木立に遮られて見ることはできない。

御嶽山遥拝所

遥拝所付近は高い木々に覆われ、木漏れ日が気持ち良い街道風景である。

御嶽山遥拝所

急な階段を上がり、一段高い所が遥拝所。 京都から江戸に向かう場合、ここで初めて御嶽山を仰げる場所とされ、古来より信仰されてきた。

御嶽山遥拝所

道の駅 木曽福島

遥拝所を過ぎて中央線沿いに進むと、眼下に「道の駅 木曽福島」が見える。 食事やトイレ休憩に良いのだが、線路や国道に阻まれる。

旧中山道

御嶽山が見えた

「道の駅 木曽福島」のあたりで、山の合間に御嶽山(3067m)を望むことができた。

うっすらと新雪をまとう姿は美しいが、2014年の噴火で多くの犠牲者が出たことは記憶に新しい。

御嶽山

沓掛馬頭観音

板敷野集落には、木曽義仲と愛馬の伝説が残る沓掛馬頭観音がある。 それも一里塚の上に建っているという。

板敷野集落へ

国道を外れて板敷野集落へ向かう。 集落といっても、7~8軒しかないようだ。

板敷野集落へ

舗装路から線路沿いの草むらの道に入って進むと、沓掛一里塚の上に立つ沓掛馬頭観音堂が見えてくる。

沓掛観音

沓掛馬頭観音は木曽義仲が愛馬を弔うため、寛保元年(1741)に建立された。 お堂の前には石仏が並び、中山道はここを通っていたが、現在は先で道は消えている。

沓掛観音

【木曽義仲と沓掛馬頭観音堂】

木曽義仲の名馬は人の言葉を理解したという。 そして義仲が木曽の桟の絶壁を通りかかり、目算で「七十三間跳べ」と命じた。

馬は命ぜられるまま正確に七十三間跳んだが、実際は七十四間あったので、人馬ともに川にへ転落。 義仲は九死に一生を得たが、名馬は命を落としてしまった。

そこで義仲は金の観音像を作らせて、堂を建てて馬の菩提を弔ったという。

以前はもう少し南の観音坂にあったが、明治43年の鉄道工事の折に、現在の一里塚の上に移築された。

(お堂前の案内板より抜粋・要約)

木曽の桟

木曽の棧(かけはし)は、古くは「木曽の棧、太田の渡し、碓氷峠がなけりゃよい」と言われたように、中山道の三大難所の一つであった。 しかし現在は、案内板が無ければまったく気づかずに通過してしまうだろう。

間違えやすい「かけはし」

赤いアーチ橋「かけはし」が見えてくる。 名前からして「木曽の桟」に間違えやすいが、往時の「木曽の桟」は対岸に向けて架けられた橋ではない。

木曽の桟

「木曽の桟」は、絶壁に沿って横に架けられた桟道である。 当時は丸太を絶壁に打ち込み、横に板を並べただけの簡単な桟道だったそうである。

その後豊臣秀頼の命で改修され、さらに江戸時代には石垣と3つの木橋が架橋されたそうである。

木曽の桟

現在は国道下に石垣の一部が保存され、その名残を見ることができる。 しかし難所として有名なわりには、拍子抜けする観光スポットである

木曽の桟

【松尾芭蕉と木曽の桟】

貞享5年8月13日(1689年9月16日)、松尾芭蕉は妻籠宿を出立し、福島宿を目指したそうである。

なんと1日で木曽路45kmを歩くという行程で、石垣造りとなった木曽の桟を通った時に、「桟橋や命をからむ蔦葛」という句を残したそうだ。

松尾芭蕉忍者説・隠密説がある。 1日45Kmも歩いたとなると、この都市伝説も真実味を帯びてくる。

現代の難所も解消されている

中山道を歩いた先人たちの記録を見ると、木曽の桟から上松にかけての国道は、途中から歩道が無くなると記されている。

激しく車の行き交う所を、歩道なしで歩くのは、まさに「現代の難所」と表現する人もいた。

しかし現在は歩道が整備され、さらに「かけはしトンネル」の開通により国道19号は対岸に移ったため、交通量は少なく安心して歩ける区間となっていた。

上松宿

日本橋から38番目の宿場。 木曽十一宿のほぼ中央に位置する。

尾張藩がこの上松に材木役所を設置し、その結果 木曽5木の生産は急増。 上松駅付近は木材の一大集積地として発展した。

十王堂の石塔・石仏群

上松宿入口には十王堂があったが、慶応3年(1867)の洪水で流されてしまった。

75年後に、流された地蔵尊が河原で見つかり、十王堂のあった場所に安置されたそうだ。 現在は馬頭観音や双体道祖神など多くの石塔・石仏群が置かれている。

双体道祖神

上松宿の街並み

上松宿は昭和25年の大火で宿場の大半を焼失。 焼け残った上町に宿場時代の街並みが残されている。

上松宿

蔵造りのような建物があった。 和菓子屋さんであった。

上松宿

皇女和宮が宿泊した本陣は、現在は歯医者さん。 面影が無いのは残念である。

上松宿本陣

八幡神社と王林院

八幡神社の本殿は正徳4年(1714)建立で、江戸中期の代表的な社殿建築だそうだ。

毎年9月5日には”芸ざらい”と云われる「奉納獅子狂言」が行われる。

八幡宮

王林院の鐘楼山門は、明和3年(1766)に建立され、明治26年の火災で本堂や庫裏は焼失したが、山門と土蔵は難を逃れた。

玉林寺

本町一里塚跡碑

枡形の曲がり角に本町一里塚跡の碑が立つ。 「京へ65里 江戸より72里」と刻まれている。

本町一里塚跡碑
 
この日は出発した木曽福島に戻って宿泊する予定である。 しかし須原から木曽福島方面の電車は15時04分。 これを逃すと、次は17時44分まで無い。

上松から次の須原宿までは約13Kmもあり、寄り道も休憩もせずに歩き続けたとしても3時間は要する。 上松駅の通過が12時30分であり、15時04分の電車に乗るにはジョギングでもしていかないと間に合わないことが判明した。

そこで途中の倉本駅をこの日の終点と、目標を変更して歩き続けることにした。

 


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