中山道 第59宿 今須宿(1) 「天下分け目の戦い」は2度あった

柏原宿

旅行日:2022年11月10日

6月に関ヶ原宿まで歩き、その後暑い夏を避けて中断していた中山道歩き旅を再開。 今回は美濃路を終えて近江に入る予定だが、近江に入ると殆んど平地で、街中を歩くようである。 そこで中途半端な時期に再開するより、紅葉時期に中山道最後の山道となる今須峠や摺針峠を越えようと、11月に再開することにした。

約5か月ぶりにJR関ケ原駅に降り立って伊吹山を眺め、この日最初の目的地である今須宿に向けて出発である。

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コースデータ

  • 日 付  :2022年11月10日
  • 街道地図 :関ケ原宿~今須宿~柏原宿
  • 宿間距離 :関ケ原宿~今須宿 1里(3.9Km)
  •      :今須宿 ~柏原宿 1里(3.9Km)
  • 日本橋から:累計114里24町(450.3Km)
  • 万歩計  :21,313歩

※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図

中山道沿いの関ヶ原陣跡をめぐる

前回6月に来た時に、石田三成陣跡など関ヶ原古戦場の核心部をレンタサイクルでめぐった。 今回は関ケ原駅から西側の、中山道沿いにある陣跡を訪れながら歩を進める。

関ヶ原駅から街道に出て西に向かう。 中山道は国道21号となって拡幅されたが、左右にうねる道は旧街道の面影を残している。

関ヶ原宿

西首塚

JR関ケ原駅の北側には東首塚があるが、街道を西に進むと西首塚がある。

数千の戦死者の首級を葬ったと云われ、胴塚とも呼ばれている。 案内版によると、明治期の鉄道工事の際に、近辺から夥しい白骨や刀が出土したという。

西首塚

藤堂高虎・京極高知陣跡

関ヶ原中学の校庭に、東軍の藤堂高虎と京極高知の陣跡碑が立つ。 西軍の大谷吉継と奮戦を行い、大谷隊を破った云われる。

藤堂高虎陣跡

不破関 東城門跡

松尾の交差点で国道を左に折れると、不破関の東側入口である東城門(ひがしきもん)跡である。 今は何もないが、東山道の時代には城門や櫓が組まれていたのだろう。

不破関東城門跡

福島正則陣跡

東城門跡から少し外れた所に、東軍の福島正則陣跡がある。 関ヶ原では先鋒を務めた猛将で、長野の小布施にある福島正則の霊廟や、東京港区にある供養塔なども訪れたことがあり、好きな戦国武将の一人である。

旗指物の裏にある大木は「月見宮大杉」と呼ばれ、関ヶ原合戦図屏風にも描かれているそうだ。

福島正則陣跡

不破関と壬申の乱

今から1350年ほど前の672年。 天智天皇の弟・大海人皇子 (おおあまのおうじ、後の天武天皇)と、天智天皇の子である大友皇子が、皇位継承争いで戦った壬申の乱。 その舞台となった地が中山道沿いにある。

兜掛石と沓脱石

民家の庭先に続くような路地に入ると、不破関の関庁跡といわれる畑が広がる。 この畑の中に、壬申の乱の折に大海人皇子が兜を掛けたと伝わる「兜掛石(左)」と、沓を脱いだ時に足を掛けたとされる「沓脱石(右)」がある。

兜掛石 沓脱石

不破関跡

壬申の乱後に設けられた不破関。 東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、古代三関の1つである。

この不破関を境に関東・関西と呼ばれるようになったとも云われている。 また松尾芭蕉は、野ざらし紀行の中で「秋風や藪も畠も不破関」という句を残している。

不破関跡

不破関跡から大木戸坂を下る途中に戸佐々神社があり、この付近に不破関の西城門(にしきもん)があったという。

不破関西城門跡

藤古川 壬申の乱の激戦地

大木戸坂を下ると藤古川。 壬申の乱では大海人皇子軍と大友皇子軍が川を挟んで激戦を繰り広げたと伝わる。 また関ケ原の戦いでは、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、軍事上の要害の地であった。

藤古川

矢尻の池

藤古川を渡り急坂を上がると、道の分岐点に「大谷吉継墓」の道標が立つ。 分岐を右に進むと、左に「矢尻の池」がある。

壬申の乱のとき、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと伝わる。 しかし現在は枯葉等で埋まり、 僅かな窪地が残るだけであった。

旧中山道

この先 左の山中に「自害峯の三本杉」があるが、ここは寄らずにパスした。 壬申の乱で敗れた大友皇子は自害し、その頭をこの地に葬り、目印に杉を植えたと伝わる場所である。

間の宿 山中集落

国道21号を歩道橋で越えると、街道は間の宿であった山中集落へと入る。 関ヶ原宿と今須宿間は1里(3.9Km)と短いが、西に今須峠の難所が控えていたので賑わったという。

山中集落 山中集落

大谷吉継陣跡と墓地へ

山中集落にある若宮八幡神社参道入口からJR東海道線を越え、若宮八幡神社を訪れる。 この神社は壬申の乱で敗れた大友皇子を祀るという。 参拝後、神社横から山道を登って大谷吉継の陣跡や墓に向かう。

松尾山眺望地

大谷吉継は同じ西軍の小早川秀秋の寝返りを察知していたと云われ、小早川秀秋が陣を敷いた松尾山の正面に陣を構えて小早川の動きを監視した。

松尾山眺望地

大谷吉継の予想は的中し、松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返って大谷隊に攻め込んできた。 さらに味方からも想定外の寝返りを受け、進退窮まった大谷吉継は、無念の自害に追い込まれたという。

陣跡からさらに山の奥に進むと大谷吉継の墓がある。 左の墓は大谷吉継を介錯した湯浅五郎の墓である。

余談であるが、上野の東博で開催された「国宝展」に、小早川秀秋の真っ赤な陣羽織が出品されていた。 ただ関ヶ原で使ったか否かは不明である。

大谷吉継の墓

↓ ↓ 関ヶ原古戦場めぐり総集編はこちら ↓ ↓

中山道 第58宿 関ヶ原宿(2) 古戦場に男の美学を貫いた大谷吉継
「天下分け目」という言葉が冠されるほど有名な関ケ原の戦い。両軍合わせて15~16万の兵力がぶつかり合った。東西両軍の武将たちが見ていた戦場に思いを馳せ、レンタサイクルで古戦場めぐりを行うことにした。

黒血川という凄い名の川が流れている

街道に戻り、再び山中集落を西に進む。 この山中集落は、中山道が整備される以前は東山道の宿駅で、壬申の乱の合戦の場でもあった。

黒血川

黒血川の上を街道は越えていく。 壬申の乱の戦いで、両軍兵士が流した血で川底の岩が黒く染まったことが名の由来とのこと。

黒血川

右に小さな祠が3つ並び、その先に新幹線が走っている。 祠は鶯瀧地蔵、黒血地蔵らしいが、あと一つは判らない。

黒血川地蔵尊

祠の向かい側に流れる黒血川に、落差5mという「鶯の滝」が流れ落ちている。

水量豊富で年中ウグイスが鳴くことから「鶯の滝」の名が付いたと云われるが、凄惨な戦いの名残りを残す川に風流な名を持つ滝は、街道を行く旅人に一服の清涼剤となったことだろう。

鶯の滝

牛若丸(源義経)の母「常盤御前」の墓が残る

新幹線のガードを潜って進み、右に少し入った所に常盤御前の墓がある。

都随一の美女と言われた常盤御前は、牛若丸 つまり源義経の母である。 説明版によると、東国に走った牛若を案じて後を追う途中、この地で土賊に襲われて命を落とし、哀れに思った村人がここに葬って塚を築いたという。

常盤御前の墓

それにしても、昔はテレビも新聞もない時代。 有名な美女といっても、村人は顔など知る由もなかったと思うが・・・

山中大師道標

「右 聖蓮寺道」と刻まれた山中大師道標が立つ。 ここから今須峠への上りが始まる。

山中大師道標

常盤地蔵

常盤御前は息を引き取る間際、宿の主人に「義経がそのうちこの道を通って都へ上る筈。 その折は是非道端から見守ってやりたい」と言い残したと云う。

その後 寿永2年(1183)、義経は上洛の為2万騎を率いて当地の若宮八幡神社に祈願と併せ、母の塚と地蔵前で冥福を祈ったと云われる。

常盤地蔵

今須峠を越える

右横を走る東海道線を見ながら緩やかな坂を上がるが、山中踏切を越えると傾斜は増してくる。 そして線路を見下ろすようになると、東海道線はトンネルへと吸い込まれていく。

トンネル入り口を過ぎてしばらく歩くと今須峠の頂上であるが、眺望は全くない。

今須峠

峠を越えて下り始めると、木々の間から今須宿の町並みが見えてきた。

今須峠

関ヶ原は「天下分け目の戦い」といわれるが、飛鳥時代の壬申の乱を含めて、2度の天下分け目の戦いが行われていたことを知った。 今まで「壬申の乱」という名は知っていても、細かくは知らなかったので良い勉強にはなったが、ちょっと古代過ぎて神話の世界のような気がする。

こうして歴史を知ると、関ヶ原は交通の要衝だからこそなのか、戦略的に重要な地域だったのだろう。

今須峠を下れば、美濃路最後の宿場である今須宿である。

 


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