旅行日:2022年6月9日~6月10日
加納宿から河渡宿まで歩き、続けて55番目の宿場である美江寺を目指して歩を進める。 しかしこの日は美江寺の手前を走る樽見鉄道で歩きを止めた。
美江寺の手前には「樽見鉄道」というローカル鉄道が走り、御朱印帳の鉄道版ともいえる「鉄印」を発行している。 しかしこの鉄印を貰えるのは”本巣”という駅だけである。 そこで中山道を早めに切り上げ、樽見鉄道の車窓風景を楽しみながら本巣を目指した。 そして鉄印入手後は、この日の宿泊地である大垣に向かい、大垣市内の街歩きに時間を費やした。
コースデータ
- 日 付 :2022年6月9日~6月10日
- 街道地図 :加納宿~河渡宿~美江寺宿
- 宿間距離 :加納宿~河渡宿 1里18町(5.9Km)
- :河渡宿~美江寺宿 1里7町(4.7Km)
- 日本橋から:累計107里27町(423.1Km)
- 万歩計 :19,438歩
※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図
河渡宿から本田立場跡へ
河渡宿の西側を流れる天王川を慶応橋で渡り、河渡宿に別れを告げて美江寺宿へと歩を進める。 まず最初は、かつて代官所が置かれたという本田立場跡を目指す。
静かな生津付近の街道風景。
馬場地蔵堂
地蔵堂のある分岐は馬場追分で、墨俣街道との追分だという。 墨俣といえば木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が築いた一夜城や、夜城園遊郭跡が有名である。
本田地蔵堂
糸貫川を渡ると、かつて代官所が置かれていたという本田立場跡である。
本田地蔵堂のお堂には延命地蔵が祀られ、毎年8月24日には地蔵祭りが行われるという。 また かつては尾張・美濃・近州の三国素人相撲が行われていたが、現在は子供相撲だけだという。
本田の集落に入る。 街道の面影を残す白壁の塀が続き、その向かいには立派な門扉を持つ秋葉神社が祀られている。
この先に「本田代官所跡」の説明版を立てた家があった。 それによると、本田には幕府直轄の代官所置かれたが、後に大垣藩に組み込まれたという。
更に先に進んで小さな川を渡ると突然道が広くなり、高札場跡の案内板が現れた。
樽見鉄道 美江寺駅へ
本田の集落を抜け五六川を越えると左右に水田が広がり、正面に伊吹山を眺めながら街道を歩く。
水田には水が引かれ、すでに田植えを終えたところもある。 この時期に新幹線から水田地帯を眺めると、一面水浸しという感じで好きな風景である。
樽見鉄道の踏切に到着。 ここで右に入ると美江寺駅である。
美江寺駅
ここから本巣駅に向かうのだが、電車が来るまで1時間以上の待ち時間があり、「ボォ~ォ」と電車を待つ。 実にのんびりと、眠くなるような気持ち良い時間を過ごすことができた。
樽見鉄道の「鉄印」
美江寺から本巣まで、約10分程のローカル鉄道を楽しみ、無事「鉄印」を得ることができた。 鉄印帳参加40社を制覇するつもりは無いが、良い記念になる。 岐阜県では、明知鉄道、長良川鉄道に次いで3社目である。
この日はここで終了。 終点の樽見まで乗ってみたかったが、この日の宿泊地である大垣に樽見鉄道で向かい、「水都」と呼ばれる大垣の街並みや大垣城だけでなく、旭遊郭の跡地探索などをすることにした。
一夜明けた翌日。 大垣から再び樽見鉄道で美江寺へ移動し、中山道歩きを再開する。
樽見鉄道 乗客のおかしな風習?
樽見鉄道の始発である大垣駅からは、多くの学生が乗車してきた。 みな私服なので大学生のようである。 自分は席に座れたが、立っている学生たちの並び方が珍しかった。
一般的に電車の車内で立つときは、窓側を向いて吊革につかまると思う。 しかし樽見鉄道の乗客は違っていた。 座席が満席になると順次運転席側に詰めて立ち、それも進行方向に向かって2列に並んで立っているのである。 前日本巣から大垣へと乗車した時に気付いたが、この時は大垣での東海道線への乗り換えに急ぐため、すぐ下車できるように並んでいるものと思ったが、どうも違うようである。
美江寺宿
日本橋から55番目の宿場である美江寺。 昔「美江寺」という名の寺があり、これが宿場の名となった。 しかし戦国時代に斉藤道三が稲葉山城を築いた時に、城下町の繁栄と鎮護の為に移転させたが、地名だけが残った。 また濃尾地震発生時には震源に最も近く、一軒を残して全壊したという。
樽見鉄道美江寺駅で下車し中山道に戻る。 美江寺宿の江戸方入口付近には「左 北方谷汲ニ至ル 右 岐阜加納ニ至ル」と刻まれた道標が置かれている。 谷汲街道との追分である。
美江寺の宿場風景
街道沿いの美江寺宿。 建物は古くないが、切妻平入りの家並は街道の雰囲気を醸し出している。
美江寺大門交差点のすぐ先に、美江寺一里塚跡の石碑が立つ。 日本橋から108里になる。
自然居士(じねんこじ)の墓所に立ち寄ってみる。 自然居士は鎌倉後期の禅僧で、美江寺に滞在して千躰仏を作り、この地で没したという。
酒の布屋
連子格子の風格ある建物が現れた。 元禄9年(1696)創業の造り酒屋「布屋」である。 濃尾地震で唯一倒壊を免れたという。
商家だから連子窓というのだろうか? 武者窓のような小窓が付いている。
美江神社と美江寺観音
美江寺の鎮守として平安時代に建立されたという。 境内には高札場が復元されていた。
美江神社の奥には、斎藤道三により稲葉山城鎮護祈願のため略奪され、その後織田信長の命により再建された「美江寺観世音」を祀るお堂が立つ。
庄屋を務めた和田家
街道は美江神社の前で直角に曲がる。 ここは枡形で、現在はT字路だが、往時は神社から先の道は無かったという。 枡形を曲がると、すぐ右手には虫籠窓を持つ、庄屋を務めた和田家がある。
酒の布屋と同じように、ここにも武者窓のような小窓が付いている。
この和田家は旧美江寺城主の和田氏の末裔だという。 そして中小学校の敷地内にあるという美江寺城址の石碑を見にいくことを忘れたことに気付いた。 戻る気はしないので、この先校庭側に回り込ん行こうと思ったが、入ることはできなかった。
美江寺本陣跡
本陣跡の石碑が立つが、本陣らしき遺構は何も残されていない。 濃尾地震で全壊してしまったのだろう。
美江寺宿出口へ
本陣を過ぎ、美江寺宿の京方出口付近から来た道を振り返る。
美江寺宿の京方出口は墨俣道との分岐で、中山道は再び直角に右に曲がる。 曲がり角には墨俣道の道標が立ち、往時は木戸が設けられていたそうだ。
小雨が時たまパラパラと降る中、これで美江寺宿は終了である。 前回中山道に来て岐阜市内を歩いた時、市役所の向かいに美江寺があったことを覚えている。 結構立派なお寺であったが、もっとじっくりと見てくればよかった・・・
さぁ 次は赤坂宿。 赤坂宿も一度訪れたかった場所が待っている!!