旅行日:2022年6月11日、11月10日
どんなに歴史に疎い人でも、「関ケ原の戦い」の名は聞いたことがあるだろう。 徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が激突した「天下分け目の戦い」である。
「天下分け目」という言葉が冠されるほど有名な戦いで、両軍合わせて15~16万の兵力がぶつかり合った。 しかし いざ合戦の火ぶたが切られると、小早川秀秋の裏切りにより、わずか1日で決着がついてしまった。
中山道歩きを中断し、武将たちが見ていた戦場に思いを馳せ、レンタサイクルで古戦場めぐりを行うことにした。 しかし空はどんよりと曇り、雨雲レーダーをみると1時間後に雨が降り出すという。
なお このページは2022年11月10日に関ヶ原から鳥居本宿まで歩いた時に、中山道沿いの陣跡をめぐった写真も含めている。
初めての電動アシスト付き自転車に驚く
関ケ原駅前の観光交流館でレンタサイクルを借りて回ろうと、初めて電動アシスト付きの自転車を借りることにした。
簡単な説明を受けて出発。 「ヨッ!」とペダルに力を入れて漕ぎ出すと、「何だこれは!」と思える軽さで、坂道何のそのとペダルがくるくると回る。 自転車とは思えない軽さに仰天である。
ロードバイクで走っている時、上り坂で電動ママチャリに抜かれたことがあるが納得である。
関ケ原駅と古戦場記念館
関ヶ原駅から古戦場方向への跨線橋沿いには、主要な武将や決戦時の経過が説明されている。
関ヶ原古戦場記念館
関ヶ原の戦いの全てが分かる施設で、シアターが面白いらしい。 しかし前日までに予約が必要とのことであった。
東首塚と西首塚
合戦で討ち取られた西軍武将の首は、家康によって首実検され、その後 東西2ヵ所に塚を作って手厚く葬った。 関ヶ原では東西15万の兵がぶつかったと云われ、相当数の戦死者が眠っているのだろう。
東首塚と首洗い井戸
大木の根元に塚があり、その前に首洗い井戸がある。 この井戸で首級の血や泥を洗い落とし、首化粧をして首実検を行ったという。
西首塚 別名「胴塚」とも呼ばれる
JR関ケ原駅前から中山道(現国道21号)を西に700mほど進むと西首塚があり、 いくつかの五輪塔も残る。
別名「胴塚」とも呼ばれ、JR東海道線敷設の際にはおびただしい白骨や刀が出土したという。
撮影日:2022年11月10日
関ケ原の戦いで裏方を務めた女性たちがいたという。 それは男たちが取ってきた首をきれいに洗い、お歯黒を付けて首化粧する仕事であった。 当時お歯黒は身分のある者に限られていたので、首化粧をすることで少しでも良い恩賞を男たちが得られるようにしていたという。
参考:関ヶ原古戦場おもてなし連合サイト
東軍武将たちの陣跡
徳川家康率いる東軍の代表的な武将たちの陣跡を訪れた。 陣跡と言っても石碑や旗指物が立つだけである。
徳川家康 最初陣地跡と最後陣地跡
中山道沿いの桃配山の中腹に、家康が最初に陣を構えた陣跡がある。 この桃配山は、壬申の乱の折に大海人皇子(天武天皇)が兵士に桃を配り、士気を高めて大勝した地だという。 家康はこの縁起を担いで、この地に陣を構えたそうだ。
しかし濃い霧で見通しが悪かったため、午前中に関ヶ原中央部に陣を進めた。 その地が「最後陣地跡」で、合戦後にこの場で討ち取った敵将の首実検が行われている。
山内一豊の陣跡
家康が最初の陣を構えた桃配山の麓付近、旧中山道の松並木に「内助の功」で有名な山内一豊の陣があった。
合戦の火ぶたを切った 松平忠吉・井伊直政陣跡
東首塚の場所に陣跡がある。 東軍の先鋒に決まっていた福島正則を無視し、西軍の宇喜多隊に発砲して合戦の火ぶたを切った。 井伊直政は合戦での負傷がもとで2年後に世を去った。
撮影日:2022年11月10日
細川忠興の陣跡 あのガラシア夫人が妻である
三成の人質になることを拒んで命を絶ったガラシア夫人の話は有名。 恨み骨髄の忠興は、笹尾山の三成本隊を攻めまくったという。
烽火場と黒田長政・竹中重門陣跡
関ヶ原を一望できる岡山に黒田長政と竹中重門が陣取り、この場所から開戦の烽火(狼煙)が上がったという。
軍師として有名な黒田官兵衛と竹中半兵衛。 それぞれの息子が陣を並べたというのは面白い。
藤堂高虎・京極高知陣跡 西軍・大谷吉継を破る
関ヶ原中学の敷地に碑が立つ。 藤堂高虎は築城の名手といわれ、京極高知は浅井三姉妹の次女”初”を正室に持つ高次の弟。 この両隊は西軍の大谷吉継と激突した。
撮影日:2022年11月10日
福島正則陣跡
福島正則は、柴田勝家、大谷吉継に次いで好きな戦国武将。 小さな神社の境内には「月見の宮大杉」という大杉が立ち、関ヶ原合戦図屏風にも描かれているそうだ。
撮影日:2022年11月10日
西軍武将たちの陣跡
西軍で参加した武将は、毛利輝元、大谷吉継、宇喜多秀家、島津義弘などがいて、石田三成と島左近が陣を構えた笹尾山から西側に陣を張ったようだ。
決戦地から笹尾山の三成陣地を望む
石田三成が陣を敷いた笹尾山を望む場所に「決戦地」の碑が立つ。 この地は三成の首を狙う東軍と激戦が繰り広げられた場所だという。 この辺りで雨が降り始めた。
笹尾山の石田三成・島左近の陣跡
敵からの襲撃に備える竹矢来・ 馬防柵が復元されている。 島左近が竹矢来の前に布陣し、押し寄せる敵から三成を護ったが激戦の中負傷。 離脱したとも討死したともいわれている。
戦場を見渡せる笹尾山に陣を築いた石田三成。 小早川の寝返りで形勢は逆転し、無念の退却に追い込まれた。
島津義弘陣跡 敵中突破の戦場離脱
西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残った島津義弘は敵中突破による退却を敢行。 多大な犠牲を払いながらも薩摩に帰国することに成功した。 世に名高い「島津の退き口」である。
雨が激しくなり、やむを得ずここで戦線離脱して帰京。 以下の大谷吉継の陣跡などは、秋の陣として11月10日に戦場復帰時のものである。
知将「大谷吉継」 関ヶ原に散る
打倒家康を訴える三成に、吉継は再三「勝機はない」と説いたが、三成の固い決心と熱意に、分がないと知りつつ西軍への参加を決意した。
病に冒されていたといわれる大谷吉継。 病がすすみ、関ヶ原には輿に乗り、さらに白い頭巾で顔を覆って参戦した。
事前に小早川秀秋の寝返りを察知していたと云われ、大谷吉継は小早川秀秋が陣を敷いた松尾山の正面に陣を構えた。
東軍・藤堂高虎との奮戦中に小早川秀秋が寝返り、さらに味方から想定外の寝返りが発生。 進退窮まった大谷吉継は無念の自害。 享年42歳であった。
大谷吉継の墓
陣跡から更に山の中を進むと、大谷吉継の墓がある。 左の墓は、大谷吉継を介錯した湯浅五助の墓である。
大谷吉継は湯浅五助に「首は敵将に渡すな」と命じて自害したという。
湯浅五助はこの命を忠実に守り、敵将の藤堂高刑に捕まった時、「私の首を差し出すから、主君の首を秘して欲しい」と頼んだ。
藤堂高刑はそれを受け入れ湯浅五助の首を討ち、湯浅五助の主君への想いを重んじ、大谷吉継の首の埋蔵場所は隠し通した。
後に大谷吉継の墓を築いたのは、この話を聞いた藤堂高虎だという。
湯浅五助だけでなく、敵将も含めた戦国武将の心意気と生き様には感服しかない。
大谷吉継の首塚
大谷吉継の首は何処に行ったのか? それはJR米原駅から15分ほど歩いた地に埋められたそうで、現在は畑の中にポツンと首塚がある。
甥の祐玄という僧が敦賀へ逃亡途中、この地に大谷吉継の首を埋め隠したと伝えられている。
大谷吉継の禄高はさほど大きくなかった。 また大きな戦巧や実績を上げてはいないようだ。
しかし人気が高いのは、悲運な石田三成に協力し、歩くことも目も見えず、また病気の顔を布で隠してまで出陣し、味方の裏切りにより散ったという、まるで北方謙三の世界のような生き様が人気を博しているのだろう。 まさに心震える男の美学である。