中山道 第53宿 加納宿(2) 黄金の信長像がお出迎え

鵜沼宿

旅行日:2022年4月8日

各務原市民公園で休憩した後、加納宿を目指して街道歩きを再開する。

慶長6年、徳川家康により岐阜城は廃城となり、代わりに加納城が築城され、その城下町が中山道の宿場も兼ねて栄えた。 ある資料によると、加納城の目的は西国大名の反乱に備えるためと書かれていた。 そのためか街道には6ヵ所もの枡形があるが、何故か東側に片寄っている。

加納宿は現在のJR岐阜駅南側に位置するが、残念ながら戦争中の空襲で宿場主要部の大半を焼失したが、道筋を辿ることはできる。

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コースデータ

  • 日 付  :2022年4月8日
  • 街道地図 :鵜沼宿 ~ 加納宿
  • 宿間距離 :4里10町(16.8Km)
  • 日本橋から:累計105里2町(412.5Km)
  • 万歩計  :33,194歩

※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図

間の宿 新加納

鵜沼宿と加納宿の間は4里10町(約17Km)と長いので、旅人が休息できる立場茶屋を置いた「間の宿」として新加納が設けられた。 現在は新道ができているが、枡形も残されている。

新加納入口

新加納の交差点を過ぎると、「間の宿 新加納」の石柱が立つ。 

間の宿新加納

狛犬ならぬ「狛蛙」を祀る日吉神社

街道から少し奥まった日吉神社。 境内にあった瓢箪池に蛙が多く棲んでいたそうで、珍しい「狛蛙」が置かれている。 いままで「狛兎」「狛鯉」を見たが、蛙は初めてである。 奥の拝殿は「狛犬」に護られていた。

日吉神社

新加納一里塚と「御典医 今尾医院」

間の宿として賑わった新加納立場跡。 分岐を右に進む道は新道で、旧街道は直進して枡形に入って行く。

間の宿新加納

分岐点付近には、江戸から104里目の新加納一里塚があったが、現在は石柱が立つのみである。

新加納一里塚碑

一里塚跡のある分岐を左に進むと、枡形に入り街道は右に曲がる。 この枡形の突き当りには、立派な門構えと黒塀に囲われた「今尾医院」がある。 この今尾医院は、江戸時代末期に旗本坪内氏の御典医を務め、現在も「御典医」の表札を掲げていた。

御典医今尾医院

手刀雄神社と「前畑がんばれ!」

桜の名所といわれる境川を越えたところで、付近の住民の方に「中山道を歩いているのか?」と声を掛けられた。 いろいろ立ち話をした中で、明日お祭り予定の「手力雄神社」に是非行くと良いと勧められた。 折角勧めてくれたので、寄道することにした。

旧中山道

手力雄神社へ

手力雄神社を勧めてくれた方によると、街道が突き当たった所に「兵藤歯科」があるという。 その歯医者は、ベルリンオリンピックの女子平泳ぎで金メダルを取り、「前畑がんばれ」との絶叫中継で有名な前畑選手の嫁ぎ先だそうだ。

T字路にぶつかり、街道は右に曲がるが、左手を見ると手力雄神社の「二の鳥居」が立つ。 この鳥居をくぐってて手力雄神社に向かう。

手力雄神社

少し進むと朱塗りの三の鳥居が現れる。 写真は手力雄神社側から振り返ったもの。

手力雄神社

手力雄神社は火祭りが有名らしく、訪れた翌日にコロナの関係で規模を縮小して開催する準備が進められていた。 

手力雄神社

高い旗竿のようなものが何本も立てられていた。 旗を掲げるのかと思ったが、自宅に戻って調べると「滝花火」というものらしく、上から滝のように花火が降り注ぐ中に神輿が突っ込んでいく、勇壮な祭りらしい。

手力雄神社

街道風情の残る切通から細畑地区

手力雄神社から街道に戻り、加納宿に向けてラストスパートである。 切通から細畑にかけての街道沿いは、街道風情を残す家並みが多少残されていた。

目薬の看板が残る

長森細畑交差点を渡ると、造り酒屋のような黒塗りの倉庫が続く。 しかし煙突もないので、造り酒屋ではないようだ。

旧中山道

屋根上に屋根付きの古い看板が眼に入る。 カメラでズームして看板を見ると、「明治水」と書かれていることが読み取れた。 カルピスのような飲料かと思い調べると、目薬のようである。

明治水看板

細畑一里塚と脇往還追分

日本橋から105里の細畑一里塚。 街道を挟んで両塚が残るが、実際は復元されたものである。 榎が植えられているが、パツパツに枝が払われてしまっている。

細畑一里塚

中山道は直進し、左への分岐に進むと笠松を経て、名古屋伊勢方面への追分に地蔵堂と道標が立つ。 道標正面には「左 伊勢名古屋ちかみち、笠松、兀1里」、右面「西 京道加納 兀八丁」、左面「木曾路、関、上有地、郡上道」と刻まれる。

延命地蔵堂

領下の辺りに来ると、立派な門構えを持つ家が軒を並べる。

旧中山道

更に茶所まで進むと、右手に岐阜市の「都市景観重要建築物」に指定された森川邸が現れ、1ブロックにわたる黒塀が続く。

旧中山道

加納宿 6個の枡形で守られた加納城城下町

江戸から53宿目の加納宿は、徳川家康が再建した加納城の城下町で、宿場も兼ねている。 街道沿いに軒を連ねた町並みは細長く、途中6ヵ所もの枡形を持っている。 美濃16宿の中で最大の宿場であったが、戦災で大半を焼失。 現在は市街地に取り込まれてしまっている。

中山道加納宿碑とぶたれ坊

名鉄茶所駅の踏切を渡る。

名鉄茶所駅

踏切を渡った所に、「中山道加納宿」の石柱が立つ。 加納宿はもう近い。

中山道加納宿

中山道から鮨街道とか笠松街道と呼ばれる道に少し入ると、丸に「鏡」と彫られた石碑と道標が立つ。 江戸時代の相撲取り「鏡岩」にちなむ石碑だそうだ。 鏡岩は素行が悪く、改心して寺院を建て、自分の等身大の木造を作り参拝者に叩かせて罪滅ぼしをしたそうだ。 そのため「ぶたれ坊」 と呼ばれている。

鏡岩碑

「ぶたれ坊」のある鮨街道との分岐のすぐ先で、中山道は直角に曲がっていく。 江戸方から来た時の、最初の枡形である。 角のお店は中山道に良く似合う「だんごや」であった。

加納宿枡形

2番目の枡形には、自然石に「右 岐阜 谷汲」「左 西京」と刻まれた道標が立つ。

加納宿枡形

加納宿東番所跡

3番目の枡形の所に「加納宿東番所跡」の碑が立つ。 加納宿の江戸方入口である。 加納宿には、他に西番所と北番所の、計3ヵ所の番所があった。

加納宿東番所跡

善徳寺前の4番目の枡形を曲がると、正面にJR岐阜駅近くにあるタワマンが見えた。 この日のゴールは近い。

加納宿

水薬師や高札場跡を眺め、中山道は加納大手町交差点手前の道を右に曲がる。 ここが最後の枡形で、直進すれば大手門から加納城へ続く。 歩道橋左階段下に、加納城大手門跡の碑が立つ。

加納城大手門跡

最期の枡形を曲がって進むと、江戸時代初期の元和六年(1620) から続くという、老舗の二文字屋がある。 外観は普通の料理屋だが、とんでもない歴史を持ち、現在も懐石料理やうなぎを中心に営業しているという。

さらに進むと当分本陣跡、本陣跡などの碑が立つが、往時の雰囲気はない。 この「当分本陣」とは何かを調べると、幕末に参勤の大名妻子が一斉に国元へ帰り、本陣だけでは捌ききれないため、臨時に置かれた本陣のことだそうだ。

脇本陣跡は黒塀が続き、風格ある佇まいを持っている。

加納宿脇本陣

加納天満宮

脇本陣跡を右に入ると、学問の神様である加納天満宮がある。 入学式帰りなのか、新しい制服を着た女子高生と母親がお詣りしていた。 きっと希望の学校入学のお礼詣りだろう。

加納天満宮

黄金の信長像が出迎えてくれる

今回の中山道歩きはJR岐阜駅からの道と交差する所で終わりとする。 街道はJR岐阜駅の南側を通るが、駅を越えて北口に回ると、マスクをした「黄金の信長像」が出迎えてくれた。 しかし信長らしいというか、派手というか ・・・

黄金の信長像

 2泊3日の中山道の旅であるが、前回に引き続き、今回も中山道を歩いたのは1日のみ。 岐阜まで到着したので、明日は岐阜城は勿論、斎藤道三などの史跡巡りの予定である。

岐阜に入ると戦国時代に絡む見どころも多く、この先関ケ原の戦場巡りや安土城、彦根城など寄道が多そうである。 岐阜も滋賀も縁遠い県なので、この際大いに寄道をしながら京を目指そう。

 


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