訪問日:2020年11月6日
旧中山道をコツコツ歩いて、日本橋から京都を目指している。 今年は新型コロナの関係で、出かける機会が少なかったが、1泊2日で妻籠宿から恵那市の大井宿までを歩いた。
せっかく恵那市に来たので、さらに一泊して日本百名城の一つ、六段壁で有名な「岩村城」と、その城下町を訪れることにした。
木曾路を抜け美濃の国へと入ったが、美濃からは戦国時代の城跡や史跡が多く残る。 中山道から外れて寄道が増え、街道歩きは遅々として進まなくなるだろうが、 歴史好きには楽しみが増える中山道歩きである。
明知鉄道と鉄印帳
明知鉄道は、JR恵那駅に隣接したホームを始発として、終点の明智までを結んでいる。 地元では「あけてつ」呼ばれているらしいが、鉄道の名と終着の駅名は、読みは同じ「あけち」だが、漢字表記が異なっている。
終着の「明智」の町は、戦国武将「明智光秀」ゆかりの地といわれ、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のラッピング電車がやってきた。
いままで明知鉄道という名前を知らなかったが、せっかくのローカル線乗車記念にと、鉄印帳を購入して鉄印をゲット。 明知鉄道の鉄印はプリントであった。
ちなみに鉄印帳とは御朱印帳の鉄道版で、全国40社の地方鉄道が参加して、2020年7月から記帳を開始した。 鉄ちゃんではないのでコンプリートを目指すつもりはないが、中山道を歩きながらポチポチと集めてみよう。
1両編成の列車には、多くのシニア世代の観光客で座席は埋まっていた。 30分ほどで岩村に到着したが、下車したのは5人だけ。 「麒麟がくる」に影響されたのか、殆どは明智の観光に行くようである。
日本三大山城の一つ 岩村城へ
駅前から見える城山山頂に岩村城址がある。 日本百名城の一つに数えられ、さらに大和の高取城 (奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並ぶ、日本三大山城とも云われている。 標高717mの高さに築城され、高低差180mという地形を生かした要害堅固な山城だったという。
駅から歩いて行けるのだが、2日間にわたり中山道を歩いてきたのでもう歩く気はしない。 岩村城本丸下の駐車場(出丸)まで、駅前からタクシーを利用して登城してしまった。
本丸西面の高石垣。 日本百名城にふさわしく、城址には想像を超えた多くの石垣が残っていた。
二の丸から本丸に入る「埋門」。 本丸の裏門に相当しているという。
岩村城本丸と織田信長
この地は古くから軍事・交通の要衝で、戦国時代はこの城をめぐって美濃の織田と、甲斐の武田が激しい攻防を繰り返したという。 山頂の本丸には、織田信長が岩村城に入城したことの説明版が置かれていた。
天正10年(1582)3月11日、織田信長は甲州(武田)討伐のため明智光秀を伴い岩村城に入城した。 おりしもこの日、武田勝頼は天目山目指して敗走の途中、信長家臣の滝川一益と最後の一戦を交え負死。 3日後の13日、岩村城滞在中の信長に武田家滅亡の一報が入った。
そして これより80日余り後、信長は明智光秀の謀反により本能寺で自刃。 49歳の生涯を閉じた。
【岩村城本丸の説明版より抜粋】
迫力の六段壁
岩村城最大の見どころは、ひな壇状に築かれ六段の石垣である。 「六段壁(ろくだんへき)」と呼ばれ、急峻な地形に石を積むことの工夫によるものだという。 各段は犬走りと呼ばれる細い通路のようなもので区切られ、石垣の補強だけでなく、防御の面でも考えられていたのかもしれない。
信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」
織田信長の叔母にあたる「艶(おつやの方)」は、織田の家督を継いだ甥・信長の命により、岩村城主「藤山景任」に嫁いだが、景任が病死したことにより、おつやの方の悲劇は始まるのである。
信長は五男の御坊丸をおつやの方の養子として送り込んだが、まだ幼少のためおつやの方が城主を務めることになり、ここに岩村の女城主が誕生したのである。
女城主と侮ったのか、武田信玄は岩村城に兵を差し向け攻囲。 しかしそこは堅固な山城。 おつやの方は3ヶ月以上にわたる籠城戦を繰り広げたのである。
信長からの援軍が来ないため、「もはやこれまで・・・」と覚悟した時、敵将である秋山虎繁から「自分の妻になれば家臣や領民の命は助ける」という、とんでもない条件が出された。 おそらくおつやの方は、相当な美貌の持ち主だったのだろう。
おつやの方に選択肢はなく、やむなく虎繁の妻となり、さらに養子である信長の五男「御坊丸」は人質として甲府に取られてしまった。 これを知った信長は激怒、岩村城を攻め、約半年の戦いの末に岩村城は落城したのである。
その後、夫である虎繁とおつやの方は岐阜に送られ、長良川の河川敷で逆さ磔(はりつけ)という、むごい刑に処された。 おつやの方が処刑されるとき、「叔母を処刑するとは、いつかは因果の報いを受けるであろう!」と、信長に対して叫んだという話もあるようだ。 本能寺の変で信長が自刃するのは、この7年後である。
歩いて下城する
不精してタクシーで来てしまったが、帰りは岩村の城下町を目指して歩いて下城する。 歩いて登ったら一汗かきそうな石畳の坂を下り続けるが、まさに山城であることがよく判る。
岩村城には本丸だけでなく、多くの石垣が残されている。 その総延長は1.7Kmで、4万個の石が積まれているという。 誰が数えたんだ・・・?
大手入口の畳橋跡の石垣。 空堀にL字形に架かる木橋を渡って城に入るようになっていて、床板を畳のようにめくることができたことから、畳橋と呼ばれたと説明板にあった。
大手一の門跡を望む。 一の門は2階門で、24時間体制で城下町などの監視を行っていたという。
石畳の道を下り続けると、太鼓櫓と藩主邸の一部が復元されている。
失敗した日本百名城スタンプ
岩村歴史資料館で、日本百名城のスタンプを押す。 しかし見事に失敗! 少し欠けたスタンプとなってしまった。
岩村城といえば「六段壁」が有名なので、写真などで多く紹介されている。 しかし実際に訪れると、六段壁だけでなく多くの石垣が残り、そのスケールの大きさには驚いた。 石垣だけではあるが、日本百名城に名を連ねていることに納得の城である。
城を後にして、次は城下町の散策である。
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