恵那市明智町 明智光秀とカラオケ鳴り響く「うかれ横丁」

うかれ横町

訪問日:2021年11月9日

岐阜県恵那市の明智町を訪れた。 恵那市ではあるが、JR恵那駅から明知鉄道というローカル線で50分ほど離れた町である。 大正時代の街並みを観光資源とし、また明智光秀の生誕地とされ、光秀の伝承や史跡などが数多く残るという。 しかし それ以上に興味を惹かれたのは「うかれ横町」である。

何ともそそられるネーミングの「うかれ横町」 つい最近まで名前さえ知らなかった地方の小さな町で、いったい何に浮かれていたのか? 「酒・金・女」の匂いが香り立つ、妖しげな雰囲気を思い浮かべてしまう。 是非とも訪れてみたいと、良からぬ動機に突き動かされての街歩きであった。

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1年ぶりの明知鉄道

昨年11月に中山道の大井宿(岐阜県恵那市)を訪れた時、明知鉄道を利用して日本百名城の一つで、女城主の城としても知られる岩村城に寄道した。 この時明智町の「うかれ横町」なるものを知り、次回中山道を歩くときに訪れようと考えた。

そして2021年9月末、長かった緊急事態宣言が解除されたので中山道歩きを再開。 しかし中山道を歩く前に明智町を訪れようと、再び明知鉄道に乗り込んだ。

明知鉄道明智駅

明智の駅前には、「明智光秀公ゆかりの地」と刻まれた石碑が立つ。

明智光秀

観光案内所に置かれた自販機も明智光秀。 NHK大河ドラマで「麒麟がくる」が放映された時は、町を挙げて大いに盛り上がったことだろう。

明知光秀

日本大正村付近の建築物

「うかれ横町」は最後に回ることにして、最初に日本大正村付近に残る建築物を訪れ、その後明智光秀など、戦国時代の史跡を見ることにした。

大正路地

観光案内所で地図をもらい歩き出すと、すぐに古き時代を思い起こす家並みが現れた。 年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続く呉服屋の蔵に挟まれた路地である。

大正路地

日本大正村役場と大正ロマン館

大正路地を抜け坂道を上がると、明治39年に建てられた木造洋館の村役場が残る。

日本大正村役場

右手には大正ロマン館。 これは平成6年に建てられた新しい建物で、初代大正村の村長となった「高峰三枝子」の記念館にもなっているそうだ。 しかし何で高峰三枝子が? 調べると平成2年に亡くなっているのだが・・・

大正ロマン館

旧三宅家(明知遠山氏の家老宅)

明知遠山氏に仕えた家老の家で、築300年以上になるという。 茅葺屋根が立派である。

旧三宅家

中に足を踏み入れると、ボランティアの方が囲炉裏に火をくべていた。 時たま煙で屋根を燻さないと、長持ちしないと話してくれた。

旧三宅家

龍護寺 明智光秀の霊廟へ

龍護寺は明知遠山氏の菩提寺だが、参道には光秀の霊廟や、光秀の直垂(ひただれ)と伝わる寺宝も残るという。 ある日 光秀の直垂を持つ落武者が現れ、無念の最期を遂げた光秀の永代供養を願って奉納したと伝わるそうだ。

明智光秀霊廟

霊廟のお社の中に石碑が立つ。 光秀に関わる石碑は、皆ひび割れると云い伝えられているそうで、この石碑もひび割れが入っている。 表面には「南無阿弥陀仏」と彫ってあるだけだという。

明智光秀霊廟

明智光秀生誕の地? 明知城址(別名 白鷹城) へ

明知城は明知遠山氏が江戸に移るまでの代々の居城で、 おなじみの「遠山の金さん」は、この明知遠山氏の出だそうだ。 明智光秀の生誕地に関しては諸説あるようで、この恵那市の明知城も候補の一つとされている。 明知城の支城である落合砦(現在の千畳敷公園)には、光秀の産湯の井戸も残るという。

明智光秀はさておいて、明知城は多くの曲輪や畝状空堀群など、山城らしい遺構を残している。 杉林の細い登城口から本丸を目指す。

白鷹城址

尾根伝いの敵の侵入を防ぐため尾根を断ち切った「堀切」や、放射線状に掘られた「畝状空堀群」が残る。 攻め手は上から狙い撃ちされ、ハチの巣になること間違いなしの山城である。

白鷹城址

地元の方の親切に触れる 明智光秀の母・お牧の方墓所

明智光秀の母である「お牧の方」の墓所を目指し、小雨の降る中を歩いていると、後ろから来た車が「送るから乗りなさい」と声を掛けてきた。

わずか500mほどの距離なので遠慮すると、「いいから乗りなさい!」というのでありがたく乗せて頂いた。 車内で「千葉から来た」と話すと、「遠くから有難うございます」と、逆にお礼を言われてしまった。 お牧の方の墓所の前でしばらく話したが、地元の方の話が色々聞け、短い時間だったが楽しい一時であった。

墓所の入口には、「敵は本能寺にあり」と彫られた大きな石碑が立つ。

お牧の方墓所

大きな高野槇の下、一番右の大きな石碑が墓所で、「南無阿弥陀如来」とだけ彫られている。 お牧の方は、人質に取られた先で処刑されるという非業の最後を迎えたようである。

お牧の方墓所

明智町の核心 「うかれ横町」へ

尾張の三河湾でとれた塩を信濃に運ぶ、塩の道であった中馬街道。 その中馬街道と、岡崎と木曽を結ぶ南北街道が交わる宿場町が明智である。 大正時代には養蚕や生糸で大いに栄えたという。

この明智町は町を挙げて「日本大正村」として町おこしに取り組み、中心部の南北1キロにわたりレトロな街並みが続いている。 愛知の犬山には「明治村」があるが、ここ明智はテーマパークでもないので入場無料である。(有料の施設も一部存在する)

中馬街道と南北街道が交わる

お牧の方の墓所から町の中心部に向けて中馬街道を歩くと、やがて南北街道が交わる辻に出る。 出会いの辻から中馬街道を振り返ると、いきなりタイムスリップする。

中馬街道

右は南北街道、左の細い路地が中馬街道。 この中馬街道に入って行くと「うかれ横町」である。

うかれ横町

うかれ横町

やがて路地を跨ぐ木造の渡り廊下が現れる。 これです! コレッ! うかれ横町の極めつけ。 これを見に、遠くはるばるやってきました。

うかれ横町

かつての「割烹旅館笹乃屋」と芸者置屋を結んだ渡り廊下で、お呼びが掛かるとこの渡り廊下を渡って宴席に向ったという。 「うかれ横町」の名のごとく、嬌声をあげてどんちゃん騒ぎをしていたのか・・・

うかれ横町

反対側には「中馬街道 うかれ横町」の看板がかかる。 この雰囲気、この景色、まさにセピア色の古い写真から抜け出した総天然色の情景である。

うかれ横町

今でもうかれているのか?

どこからともなく女性が熱唱するカラオケが聞こえてくる。 渡り廊下で繋がった割烹旅館笹乃屋からで、木造風の外壁材とステンドグラスの窓は、ネットでいろいろ紹介されている喫茶店アミーである。 左に立つトイレの脱臭煙突が懐かしい。

うかれ横町

元はキャバレーだったようで、うかれまくりの時代に様々な伝説を生みだしたのだろう。

うかれ横町

表の入口に回ってみると、店は地下にあるのか? 赤い半透明のプラスチック状のドアがチープ感とレトロ感を撒き散らしている。 昼間からカラオケに興じるところを見ると、現在も「うかれ横町」は健在のようである。

うかれ横町

店内も見たかったが、店に入るとカラオケに巻き込まれそうな勢いの熱唱なので、ちょっと勇気が出なかった・・・

明智の街並み

南北街道沿いに、古い街並みが続く明智町。 うかれ横町を後にして、街並みを楽しみながら明知の駅に向かう。

南北街道の風景

明智の街並み

1階壁面の石貼りを見ると、この家も料亭か何かだったのだろう。

明智の街並み

日本大正村資料館

立派な格子戸を持つ家。 明治末期の建築で、米穀商から後に医院を開業した家のようだ。

明智の街並み

昔の郵便局と現在の銀行

 明治8年に開局したという郵便局。 中には昔の電信機などが展示されていた。

明智の街並み

こちらは十六銀行明知支店。 町の雰囲気に合わせ、レンガ造りで建てられている。

明智の街並み

歯科医院が残る

大正時代に建てられた歯科医院。 正面上部は新建材で覆われているが、当時は時代の先端を行くモダン建築だったのだろう。

明智の街並み

それにしても電車は明知鉄道、駅名は明智。 明知遠山氏と土岐明智氏、明知城に明智光秀。 明知と明智が紛らわしい町であった。

夕飯は「あんかけカツ丼」

明智の街歩きを終え、この日は恵那のビジネスホテルで1泊。 さて夕飯をとネットで探すと、「あんかけカツ丼」なる、激うまそうな写真が目に飛び込んできた。 トロトロ卵のカツ丼や親子丼は大好物。 「これを食べないと、あとで後悔する」と夕飯決定! 店の場所は、恵那からJRで3駅名古屋寄りの瑞浪駅前。 「電車で移動なんのその!」と、瑞浪駅前の「加登屋食堂」へと足を伸ばす。

出されたカツ丼は期待どおりで、思わず舌なめずり。 少し甘めの卵とじの餡がたっぷりとかかり、いままで食したカツ丼とは全く異なる世界。 もう一度食べたい!!

あんかけカツ丼

ビールとつまみ+あんかけカツ丼で、はち切れんばかりとなった腹を抱えて恵那に戻る。 明日は中山道の難所の一つである十三峠越え。 シャワーを浴びて夢の中へ・・・

 


 

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