第2宿 川崎宿 川崎の風俗の歴史を学ぶ

日本橋

旅行日:2020年2月8日

「のんびり東海道」の旅、第2回目。 品川宿から神奈川宿を目指す。

中山道はコツコツと歩いているが、東海道を歩こうとは考えていなかった。 しかし冬の寒い中を、中山道の山の中を歩く気はしないので暇である。

その暇な時間の中、1月に日本橋から品川宿までを歩いてみた。 ほとんど思い付きで歩き始めたが、中山道歩きを再開するまでの間に、行けるところまで歩こうと東海道を歩き始めた。

日 付 区 間 里程表 計画路 GPS 万歩計
2020年
2月8日
品川宿~川崎宿 2里18町 9.8Km Map GPS 35,050歩
川崎宿~神奈川宿 2里18町 9.8Km
合 計 5里 19.6Km
日本橋からの累計
(累計日数 : 2日目)
7里 27.5Km 58,839歩

里程表 : 「旅行用心集」(1810年刊行)の数値を採用。
計画路 : 現代の旧東海道ルート図で、歩く予定のコース。

「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。

GPS  : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。


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品川宿を出発

京浜急行の「青物横丁」で下車し、次の宿場である川崎宿目指して歩き始める。

江戸六地蔵がある「品川寺」

品川寺と書いて「ほんせんじ」と読む。 江戸の出入り口である街道入口に置かれた、江戸六地蔵の第1番目のお地蔵様である。

品川寺

品川寺の梵鐘は、1867年のパリ万博出品のためヨーロッパへ渡ったが、行方不明になったという。 その後ジュネーブの美術館で発見され、返還されたという数奇な運命を持っている。

海雲寺の「平蔵地蔵」

海雲寺の千躰荒神堂の格天井には、火の安全を祈願して、火消しが奉納した纏の絵が描かれている。

海雲寺

境内には「平蔵地蔵」という、少し悲しい物語を持つお地蔵さんも祀られている。

平蔵地蔵

平蔵地蔵物語

江戸末期、鈴ヶ森の番人をしていた3人の乞食がいた。 その中の一人である平蔵は、ある時大金を拾ったが、正直に落し主を探して返却。 お礼も受け取らなかった。
これを聞いた仲間の2人は、「拾ったお金を山分けすれば乞食をやめられた」と怒り、平蔵を小屋から追い出して凍死させてしまう。
これを聞いた落し主は平蔵を哀れみ、遺体を引き取り手厚く葬り、更に石の地蔵尊を立てて供養したという。

鈴ヶ森刑場跡へ

街道から路地を覗くと、民家の頭上を京浜急行が走っている。 京急といえば 民家の軒先をかすめてぶっ飛ばしていくイメージがあるが、この付近は高架になっている。

京急

浜川橋(泪橋)

立会川に架かる浜川橋。 この橋で鈴ヶ森の刑場に送られる罪人と、最後の別れを惜しんで涙したことから「泪橋」とも呼ばれた。

浜川橋

日光街道の小塚原刑場の手前にも「泪橋」の交差点がある。 あの「あしたのジョー」が通った丹下ジムがあった所である。

鈴ヶ森刑場跡

東海道の鈴ヶ森、甲州街道の大和田 および 日光街道の小塚原の3箇所が江戸三大刑場であった。 この鈴ヶ森では、磔刑や火炙りの刑などで、10万とも20万ともの罪人が処刑されたという。

「首洗いの井戸」である。 斬首された首や、処刑に使った刀や槍を洗ったのだろう。

首洗いの井戸

 磔刑や火炙り時に立てる柱の礎石も残る。 左が磔刑用、右が火炙り用だそうだ。

鈴ヶ森刑場

磔刑や火炙りの刑がどのように執行されたかを調べると、まさに凄惨・おぞましいとしか言いようがない。 わずか16歳という若さで、この丸い石の上に立たされて散ったのは「八百屋お七」である。 合掌・・・

六郷橋を目指す

鈴ヶ森で国道に合流。 途中で旧道を歩く部分もあるが、しばらく国道を歩いて六郷橋を目指す。 正月の箱根駅伝第1区のコースだが、この1区を走るころはまだ寝ていることが多い・・・

旧道を進む

途中で旧道に入るが、昔の面影はない。 しかし国道の喧騒から逃れられることは嬉しい。

旧東海道

梅屋敷

「和中散」という腹痛や風邪に効く薬を売っていた、山本屋の庭だったという。 梅の木は植え替えられたのか、まだ小さかった。

梅屋敷

六郷神社

源頼義、源(八幡太郎)義家父子が、奥州征定後に創建したという六郷神社。 徳川家康から神領として朱印状をもらい、また家康が六郷橋を架橋した時も、この神社の神輿で渡り初めをしたという。

六郷神社

境内には 貞亨2年(1685)建立 の狛犬も残る。 愛嬌のある顔した狛犬である。

六郷神社

旧六郷橋と北野神社(落馬止め天神)

六郷川の土手にぶつかり、右に入ると旧六郷橋の橋門と親柱が保存されている。 1925年に完成したものだそうだ。

旧六郷橋

すぐ隣には、小さな北野神社がある。 別名「止め天神」とも呼ばれ、8代将軍吉宗の乗馬が暴走し、危うく落馬するところを止めたことから「落馬止め天神」と呼ばれ、地元民は単に「止め天神」と呼んだそうだ。

止め神社

六郷川を渡って神奈川県に入る

六郷川を渡ると神奈川県の川崎市である。 六郷川とは多摩川の下流域を指すが、この呼称の部分は短いようだ。

六郷川

六郷渡し跡

徳川家康は関ケ原の直前、慶長5年(1600)に六郷橋を架けたが、その後流失。 以降架橋は行われず、渡し船となった。 そのため明治元年(1868)に明治天皇が渡御の際は、23隻の舟を並べて舟橋を作って渡った。 現在は川崎側の土手に「六郷の渡し跡碑」が立つ。

六郷の渡し跡碑

川崎宿に入る

風俗は堀之内だけではなかった!

六郷橋を渡ると、すぐに川崎宿に入る。 川崎宿を調べて判ったことだが、旅籠は72軒あり、飯盛女もいたそうだ。 さらに飯盛女の年齢が、14歳から27歳辺りが多かったというから驚きである。

やがて明治に入っても飯盛女のいた旅籠は、「貸座敷」つまり「ちょんの間」として営業を続けていた。 しかし風紀の乱れから南町に移され、そこが遊郭となり、更に戦後の赤線地帯へと続いたそうである。 川崎といえば堀之内しか知らなかった ・・・

川崎宿

田中本陣跡

本陣を経営していた「田中丘隈(きゅうぐ)」は、幕府に掛け合って六郷の渡しの運営を川崎宿で引き受けることに成功。 川崎宿の財政を立て直すなどの功績が認められ、晩年は代官になったという。 しかしこの本陣跡も見る影もない。

田中本陣跡

小土呂橋碑

川崎駅からの大きな通りとの交差点角に、自転車に囲まれて2本の柱が立っている。 「 小土呂橋」の親柱である。 往時「新川堀」という用水路の橋であったが、暗渠化された時に撤去されたそうだ。

小土呂橋

 

 

川崎宿の旧東海道は、JRや京急の川崎絵ににも近く、賑やかな繁華街と化していた。 道を歩く人々は、ここが旧東海道とは知らない人も多いだろう。 しかし「ふれあい交流館」とか、どこかのNPOが主催する「川崎宿を歩く」とかのグループも歩いていたので、地元の方たちは文化や歴史を活かすことに頑張っているようだ。

次の保土谷宿目指して歩き続けるが、当面は市街地を歩く。 途中で飽きてしまいそうである・・・

 

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