旅行日:2019年4月3日
2017年6月に和田峠を越えて下諏訪宿まで進んだ後、9月に足を痛めてしまった。
足首の痛みがとれるのに1年近くを要し、昨年秋に中山道歩きの再開を目論んだが、母の葬儀などか続いて再開はできなかった。
未だに無理をすると痛みがぶり返すなど不安は残るが、とにかく再開しようと、約1年9か月ぶりに下諏訪の駅に降り立ち、塩尻峠を越えて木曽の入口を目指して歩き始めた。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 実距離 | 万歩計 | ルート | ||
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2019年 4月3日 ~4日 |
下諏訪宿~塩尻宿 | 2里33町 | 11.5Km | 17.9Km | 24,509歩 | Map | |
塩尻宿~洗馬宿 | 1里30町 | 7.2Km | 25,250歩 | Map | |||
洗馬宿~本山宿 | 0里30町 | 3.3Km | 10.2Km | ||||
本山宿~贄川宿 | 2里0町 | 7.9Km | |||||
合 計 | 7里21町 | 29.9Km | 28.1Km | 49,759歩 | |||
日本橋からの累計 (累計日数 : 20日目) |
62里26町 | 246.3Km | 256.1Km | 425,088歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
実距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
実距離の数値をクリックで、ルートラボの計画コースを表示
MAP : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図
中央線の旅に変わる
日本橋から下諏訪宿までは、高崎線や長野新幹線を利用した。 しかし今回からは中央線の特急あずさを利用することになる。
中央線の車窓からは南アルプスや八ヶ岳を楽しめる。 右の三角い山は甲斐駒ケ岳。
下諏訪を出発
下諏訪に到着し、準備を整えて早速歩き出す。
砥川の手前では、民家の間の幅1mにも満たない路地を進む。 しかし砥川の護岸工事のため、抜けることはできなかった。
旧街道らしい、のどかな風景の中を進む。
今井茶屋本陣跡
この付近には4軒の茶屋があり、四ツ家立場と呼ばれていた。 この中の今井家が本陣を勤め、皇女和宮や明治天皇も休息した。
旧塩尻峠へ
長野自動車道の岡谷ICを左に見て進むと、いよいよ塩尻峠の登りである。 しかし峠と言っても道は舗装され、ダラダラと長い坂道を1Kmほど登るだけである。
石船観音と金明水
塩尻峠登り口にある急階段を上ると、「石船馬頭観音」がある。 舟形の台石上に馬頭観音が祀られていることが名の由来である。
足腰に弱い人に御利益があると云われ、多くの草履が奉納されている。
石船観音へのもう一つの階段下には、金名水と呼ばれる清水がこんこんと流れ落ち、冷たくて美味しい水であった。
大石
昔、盗賊がこの岩に隠れて旅人を襲ったと云われ、「木曽路名所図会」にも紹介されているそうだ。 それにしても名前がシンプルで良い。
旧塩尻峠からの眺望
標高1055mの塩尻峠展望台より諏訪湖と八ヶ岳を眺める。 岡谷や下諏訪の町が、思った以上に下に見える。
この峠は太平洋側の「表塩」と日本海側の「裏塩」の接点で、塩の終着地という意味で「尻」、つまり「塩尻」という名が付いたそうだ。
上条(柿沢)茶屋本陣跡
塩尻宿に向けて峠を下り始めると、立派な「雀おどり」を持つ上条(柿沢)茶屋本陣跡である。
この建物は寛政8年(1796)に建てられ、現在も普通の民家として使われている。
親子地蔵
さらに下ると、右の木立の中に2体のお地蔵さまが立つ。 天明の大飢饉の際、塩尻峠で行き倒れとなった旅人を弔った地蔵だそうだ。
【 伝説 夜通道 】
親子地蔵の横に、「伝説 夜通道(よとうみち)」と書かれた白い標柱が立つ。 「いつの頃か、片丘辺の美しい娘が岡谷の男と恋仲になり、男に会うために、毎夜この道を通った。」と記されている。
今でも日が落ちれば街灯もない真っ暗闇の道になるのだろう。 このような夜道を娘一人で歩くとは愛の力か、はたまた狂気のなせる業なのか? そしてこの二人は無事結ばれたのだろうか? 想像の膨らむ伝説である。
東山一里塚
江戸・日本橋から57里(約224Km)の東山一里塚。 南塚だけが現存する。
松本平に入る
塩尻峠を下り切ると松本平と呼ばれる平地に入り、塩尻宿はもう近い。 国道20号を下に見ながらのんびり歩くが、新緑には少し早すぎた。
柿沢集落
長野自動車道を越え柿沢集落へ入る。 「雀おどり」と呼ばれる棟飾りを持つ本棟造りの旧家が多く、味わいのある集落である。
首塚胴塚
街道から少し外れた畑の中に、「首塚胴塚」と呼ばれる石碑が立つ。
天文17年(1548)、甲斐の武田信玄と松本藩・小笠原長時の軍が闘い、小笠原軍は破れて多くの戦死者を出した。 そして村人たちが戦死者を弔い、ここに埋葬したそうだ。
永福寺
観音堂の竜の彫刻が立派なようだが、遠目に永福寺を眺めるだけで終りとした。
塩尻宿
日本橋から30番目の宿場。 伊那や松本へ通じる街道の分岐点で、交通の要衝であった。 そのためか旅籠が75軒と、中山道の中で2番目に規模の大い宿場であった。
しかし明治16年の大火で本陣や脇本陣など町の大部分が消失。 往時の面影は殆ど失われた。
柿沢一里塚
塩尻宿の入口となる仲町交差点に石碑が立つ。 日本橋から58里である。
三州街道分岐
三州街道は中山道の脇往還で、別名伊那街道とも呼ばれる。 伊那谷を経て岡崎に至り、太平洋側の海産物や塩を信州の内陸部まで運ぶ「塩の道」であった。
十王堂跡碑と石塔群
十王堂跡碑の横には、庚申塔や双体道祖神などの石塔が並ぶ。
旅籠いてふ屋
明治16年の大火を免れた、元旅籠「いてふ屋」の小野家住宅。 「いてふ屋」という名は、今風に呼べば「いちょう屋」である。
塩尻市HPによると、天保2年(1832)築だそうだ。
塩尻宿本陣跡
明治16年の大火で焼失。 この本陣の近辺には高札場が復元され、上問屋跡や脇本陣跡を示す標柱も立つ。
塩尻宿京方出口
国道153号から右の旧道へ分岐する所に、「中山道鉤の手跡碑」が立つ。 京方出口の枡形であった。
枡形の先にある塩尻東小学校の前には、「是より塩尻宿」の碑が立ち、塩尻宿の京方出口を示している。
塩尻宿は明治期の大火により多くを焼失し、宿場の面影は殆ど残されていない。 しかし失われた遺構の場所を示す標柱が多く立ち、往時の賑やかさが想像できる。
明治に入り中央線が開通して塩尻駅が開設されると、残念ながら街の賑わいは駅を中心とした地域へ移ったようだ。
下諏訪から塩尻に向けて西に進んできたが、この先の下大門の交差点を左折して南西へ進路を変え、いよいよ木曽路を目指すことになる。