浅草橋から総武・中央線沿いに西に向かっていた外堀は、四谷でJR線路と別れ、東に向かうために赤坂方向に大きくUターンを開始する。 四谷から喰違門の間は、市ヶ谷からの土塁が続く。 しかし右手の真田堀は埋められ、上智大のグランウドになっている。
今回は土塁上を離れ、土塁と反対側にある迎賓館に立ち寄ることにした。 迎賓館はテレビのニュースや、タクシーなどで前を通ることは良くあったものの、一度も歩いて眺めたことが無い。 車で迎賓館の前を通る時、気になる場所もあったので、これを確かめることも目的の一つである。
迎賓館
四谷駅からお堀の外側に出て迎賓館に向かう。 しかしこのようなヨーロッパの宮殿風ではなく、もっと日本的な建物の方が迎賓館としてふさわしい気もするが・・
迎賓館正面
紀州徳川家の中屋敷があった敷地の一部に、東宮御所として1909年に建設された。
日本近代建築の父と呼ばれ、鹿鳴館やニコライ堂などを手掛けたジョサイア・コンドルの弟子である片山東熊の設計。 しかしあまりにも華やか過ぎて、住むには不向きとのことで離宮となった。
迎賓館
普段は固く門は閉ざされているが、一年に一度だけ一般に開放される日がある。
迎賓館東門
紀之国坂側の塀の途中に和風の門があり、車で通る時に「何故ここに和風の門があるのか?」と素朴な疑問を抱いていた。 調べると、紀州徳川家中屋敷の表門を移築したものだった。
迎賓館東門の紋
紀州徳川家の門だが、さすがに屋根瓦の紋は菊の御紋章に変えられている。
喰違門へ
迎賓館東門の先で、お堀を分断する喰違橋という名の土橋を渡る。 この土橋から四谷方向を見ると、上智大学のグラウンドとなった真田堀。 赤坂方向は水を蓄えた弁慶濠を見下ろすことができる。
喰違門の位置
喰違門は枡形門を築かず、角材を組み合わせただけの冠木門と、クランク状に屈折した道を作り、直進出来ないようにしただけである。 現在は車を通すために緩やかなカーブに改修されているが、当時の面影を忍ぶことは出来る。
真田堀を眺める
土橋の上から四谷方向を見ると、上智大のグラウンドが良く見える。 外堀沿いの土塁(右側)は、この喰違橋まで続いている。
弁慶堀
土橋の上から赤坂側を見れば、眼下に弁慶堀の水面を見ることができる。 首都高がずいぶん下の方を走っている。
喰違門
迎賓館側から見る。 現在は緩やかにカーブして紀尾井ホールの方に抜けているが、昔はほぼ直角に曲がっていた。
紀尾井ホール側から見てみる。 道路が少し曲がっていることがわかる。 この喰違門で、幕末から明治にかけて活躍した、岩倉具視の暗殺未遂事件があったそうだ。
喰違門を抜けると紀州徳川家、尾張徳川家、彦根伊井家の各中屋敷があった場所に出る。 紀尾井町や紀尾井坂などの名の由来として有名である。 次はこの紀尾井坂を下り、赤坂見附に向かう。