馬場先門 忠臣・楠木正成が皇居を見守る

大手門
東京駅から、丸の内の三菱村を抜けて馬場先門に向かう。 この丸ノ内という地名からも判るように、江戸時代は内堀と外堀の間に、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれる大名屋敷が並んでいた。

明治維新後に大名屋敷は取り壊され、陸軍練兵場を経て、三菱の岩崎弥太郎に128万円で払い下げられた。 これが現在の丸ノ内にある三菱村の始まりである。

 

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交差点にその名が残る

寛永12年(1635)、3代将軍家光が朝鮮特使団の曲馬を、門内の馬場で見たことから朝鮮馬場と呼ばれ、それが馬場先と呼ばれるようになったことが名前の由来らしい。

不開門とも呼ばれた馬場先門

枡形門完成時には橋は架けられなかったため、門が開くことはなかったそうだ。 そのため「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれていたが、明暦大火で焼失・再建をきっかけに橋が架けられ、通行できるようになった。

現在は鍛冶橋から内堀通りへの道が拡幅され、遺構は残っていない。 交差点に名前が残るだけである。

馬場先門跡馬場先門跡

日露戦争勝利を祝う提灯行列

交差点を渡り、更に日比谷濠を渡った所に馬場先門はあった。 櫓台などの石垣に見えるが、これは濠の石垣である。

馬場先門跡

馬場先門跡から有楽町方向を振り返る。 高いビルの下にある優雅な雰囲気のビルは、国の重要文化財に指定されている明治生命館である。

馬場先門跡

明治37年(1904)5月、日露戦争戦勝利を祝う提灯行列が行われ、熱狂した人波が馬場先門に殺到し、20名の死者を出す惨事が起きた。 当時はまだ馬場先門は存在し、敵の侵攻を防ぐことを目的とした枡形の効果が実証されたようなものだろう。 この事件を機に、馬場先門は撤去された。

皇居を見守る楠木正成像

馬場先門から皇居外苑を左に進むと、凛々しい姿の楠木正成像が立つ。 千代田区観光協会のHPによると、「楠木正成公が1333年(正慶2年)隠岐の島から還幸途次の後醍醐帝を兵庫の道筋でお迎えした折の勇姿を象ったもの」とある。

楠正成像

天皇家の正統は「南朝」

後醍醐天皇は足利尊氏との戦いに敗れ、三種の神器を持って吉野に逃れて「南朝」をひらき、「南北朝時代」が始まった。 そして南朝は4代で滅び、南北朝は北朝に統一された・・・ と学校の歴史で習った覚えがある。 したがって現在の天皇家は、北朝から連綿と続く家系かと思っていた。

しかし この楠木正成を調べていて、現在の天皇家は南朝を正統としていることを初めて知った。 どうも水戸光圀が編纂した『大日本史』の影響が強いようで、この中では南朝を正統と考えられていたようだ。

維新後の朝廷は北朝を正統と見ていたそうだが、帝国議会や世論の紛糾を見て、明治天皇は「南朝が正統」と決断したとのこと。 どこだったかのサイトに、「血統は北朝、皇統は南朝」と書かれていたが、思わず「なるほど・・・」と納得してしまった。

「南朝が正統」となったことにより、南朝を樹立した後醍醐天皇に味方した楠木正成は、まさに勤皇のヒーローとして、現在も天皇家を見守っているのである。 もし「北朝が正統」であれば、この像が建つことはなかった・・・ など想像が広がる。

江戸切絵図で見る

切絵図で見ると、お濠に沿って門があった。 この馬場先門が残っていたら、日比谷通りから良く見えたことだろう。

江戸切絵図

 
子供の頃のアルバムに、遠足で楠木正成の像の前で撮った集合写真があったことを思い出しながら、次の和田倉門へ足を向けた。
 


 

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