平川門 あの歴史的有名人も利用した

大手門
地下鉄東西線の竹橋駅で下車し、パレスサイドビルから皇居側の内堀通りに出ると、木の橋が架かった門が見える。 「平川門」である。

この門は江戸城の艮(うしとら)の方角(東北)、つまり鬼門にあたるため、「不浄門」として、城内の罪人・遺体・病人・下肥などをこの門から出していた。 また大奥に一番近い門なので「御局(おつぼね)御門」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用された。

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江戸の面影を残す平川橋

お濠端から眺める平川橋と白壁は、江戸の当時を思わせる景色である。

お濠に架かる橋で江戸時代の「木橋」の姿を残すのは、和田倉門にある「和田倉橋」と、この「平川橋」のみである。 しかし橋本体が木造の平川橋のほうが、より雰囲気を醸し出している。

また親柱に付けられた擬宝珠には、寛永や慶長などの銘が彫られ、往時のものが使われていることがわかる。

平川門平川門

平川門

奥女中の通用門であり、死者・罪人を出す不浄門である平川門は、田安・一橋・清水の徳川三卿の登城口でもあった。 門の造りは枡形門であり、木橋の平川橋、高麗門、渡櫓門の3つが、現在も揃っている。

【 高麗門 】

平川門
平川門

【 渡櫓門 】

高麗門から枡形内に入ると、左に渡櫓門がある。 この平川門の枡形は、大手門や桜田門などと異なり、庭のように手入れされている。

平川門
平川門

帯曲輪門の役割は如何に?

枡形内から渡櫓門をみると、右側に「帯曲輪(おびくるわ)門」という小さな門がある。 ネット上の平川門の紹介記事には、この門を「不浄門」と説明しているページを散見する。

【 竹橋門と平川門を結ぶ帯曲輪 】

下の写真は、平川門内に立つ説明版から借用したものである。

竹橋門と平川門の間に、大手濠と平川濠に挟まれた、細長い土手のようなものがある。 「帯曲輪」と呼ばれ、有事の際には互いの守りの兵が駆けつけるための通路だったそうである。

この付近は本丸に近く、また外堀の一ツ橋門や雉橋門が非常に接近している所である。 万一外堀を破られた場合に備え、内堀を二重にして鉄壁な護りとしたものだろう。

【 帯曲輪門 】

渡櫓門の横にある「帯曲輪門」は、この帯曲輪に通じる門である。 竹橋門が残っていたら、やはり同じような門があったのかもしれない。

平川門

この帯曲輪門が不浄門だとすると、罪人などは渡櫓門を出て左の帯曲輪門をくぐり、帯曲輪を通って竹橋門から出ることになる。 どうも不自然な感じがする。

一方、平川門横に船着き場があり、そこから船で出されたと説明しているサイトもあり、実際には良くわかっていないようである。

個人的には、普通に渡櫓門・高麗門から平川橋を渡って出て行ったような気がする。 もちろん何の根拠もない・・・

平川門から城内に

平川門から江戸城内に入る。 大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門と云われているが、三の丸の正門でもあるので立派である。

【 江戸城内から渡櫓門をみる 】

この写真では良く判らないが、左に帯曲輪門はない。 つまり江戸城内から帯曲輪に直接入る道 、または門は無く、渡櫓門をくぐって枡形内から入る必要がある。

逆に言うと、竹橋門から帯曲輪を突破して侵入した敵は、結局平川門の枡形内に躍り出てしまい、そこで再び防衛部隊に囲まれて討たれてしまうことになる。

平川門

【 平川濠と帯曲輪 】

平川濠の右側の土手が帯曲輪である。 このすぐ向こうに、もう一つ濠があるとは思えない。

平川濠

【 下梅林門 】

平川門から直進すると天神濠であるが、道は大きく右にUターンしている。 濠の対岸は、Uターンした先にある下梅林冠木門の石垣である。 この曲がりくねった道も、敵の侵入を防ぐための方策なのだろう。

平川濠

千代田区観光協会のページによると、天神濠と平川濠の間に架かる橋は「下梅林冠木門外橋」という名だそうだ。 現在は土橋となっているが、往時は北桔橋門と同じく、桔橋であったと伝えられているとのこと。

この橋が”下梅林冠木門外橋”というのであれば、ここは冠木門だったのだろうか?

下梅林門跡

左に曲がって進むと、下梅林門の渡櫓門跡の石垣が残る。 礎石にはほぞ穴も残っている。 正面には梅が咲いている。

下梅林門跡

【 梅林坂 】

下梅林門から先に進むと、右に分かれて上がる坂がある。 本丸へ通じる梅林坂である。 この坂を上ると上梅林門があり、天守閣や大奥へと通じている。

大奥の奥女中達は、着物でこの坂を上がるのは大変だったろう。

梅林坂

不浄門を利用した歴史的有名人は?

不浄門としての平川門を利用したということは、江戸城内から出された罪人 または死者ということである。

窃盗とか大奥女中に悪さしたなどで、放逐された名もなき人物もいたと思われる。 このような中で、大罪を犯して後世に名を残した人物を見てみよう。

【 代表格は あの忠臣蔵の「浅野内匠頭」 】

不浄門を利用した筆頭は、忠臣蔵ですっかり有名人となった「浅野内匠頭長矩」であろう。

松の廊下で刃傷沙汰を起こした後、式服の大紋を脱いで、平川門から切腹場所となった芝田村町の一関藩屋敷に向かった。 この時、唐丸駕籠(とうまるかご)と呼ばれる、竹で編んだ鳥かごのような、罪人が乗せられる駕籠で出て行ったのだろうか?

ついでに”式服の大紋”を調べると、烏帽子や引きずるような長い袴の、殿中における礼装のことだそうだ。 ドラマなどで、浅野内匠頭が吉良に斬りつけると、「殿中でござる! 殿中でござる!」と止めにはいるシーンでは、確かに長い袴をズルズルと引きずっている。

【 女盛りの「江島」は裸足で引き出された 】

歌舞伎や小説にある「江島生島」の主人公で、大奥最高の実力者、御年寄の「江島(絵島)」である。 御年寄といっても、まだ30代だったと思う。

歌舞伎役者の「生島」との密会を疑われ、風紀を乱した罪で信州・高遠城に幽閉されることになった。 江戸城を追放される時は、白無垢一枚に裸足という姿で、平川門から出て行った。 しかし白無垢一枚に裸足という姿は、多分に後世の歌舞伎などでの演出が、そのまま伝わっているような気がする。

実際には次期将軍の後継者をめぐる、権力争いに巻き込まれたことが真相のようだ。

不浄門を生きた姿で出て行ったのは、先に挙げた「浅野内匠頭」と、この「江島」だけだそうだ。

【 便壺でおぼれ死んだ「松下伝七郎」 】

名は知られていないが、布団にぐるぐる巻きにされて不浄門を出た侍がいる。

十二代将軍家慶の側仕え「松下伝七郎」は、嘉永元年(1848)11月27日は江戸城で泊まり勤務だった。 当日は冬至であったことから、将軍は泊まり勤務の者を集めて酒を振る舞い、大いに盛り上がったそうだ。

翌朝、松下伝七郎の家来が迎えにきたが、いつまでたっても現われない。 おかしいと城内を探し回り、「大便所の便壺をのぞいてみよう」と踏み板をはがして調べると、何と裃姿の松下が便壺で溺死していた。

飲みすぎてトイレに屈んで吐いていて、頭から落ちたことは容易に想像がつく。 しかし、さすがに便壺で溺死したとは言えない。 遺体を布団でくるみ、急病の形にして平川門から自宅に送られたそうである。

この話は江戸末期に書かれた「藤岡屋日記」に書かれている。 武士の最後として、「無念極まりない」という言葉では言い表せないくらい、残念無念、無残というか滑稽、臭い死でもある・・・ 合掌!

【 春日局と幕末の幕臣・小栗上野介の関係 】

不浄門とは関係ないが、平川門にまつわる話である。 江戸の前期、三代将軍・家光の乳母であった「春日局」が、門限に遅れて締め出しを食い、門前で一夜を明かしたという。

この時の門衛は「小栗又一郎」という旗本で、御役目を守ったとしてお褒めにあずかり、500石の加増を受けたそうである。 この「小栗又一郎」の子孫が、幕末の幕臣として活躍し、赤城山に埋蔵金を隠したと云われる「小栗上野介」だそうだ。

春日局がどのように夜を過ごしたのか、興味はある。 しかしそれ以上に、当時の門衛と、幕末の切れ者である「小栗上野介」が繋がっているとは、やはり歴史は面白い・・・

 

三十六見附巡りはこれで終りだが、次は大奥について調べてみよう。

やはり男である以上、大奥には興味がある。 今風の美人とは違うかもしれないが、奥女中を含め美人だらけだったのだろうか? まさに女の園、ユートピア。 しかし実際は白粉の匂いが充満し、ドロドロとした女の戦いの場であったのか? タイムマシンやどこでもドアが欲しい。 ドラえもんはいないのか??

うぅ~ん 興味は尽きない!!

 


 

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