銀座のソニービルとか、年末になるとジャンボ宝くじを求める人の列が必ずニュースになる数寄屋橋交差点。 この数寄屋橋にも見附の門があったというが、今は影も形も無い。
この外堀上に架かっていた数寄屋橋は、昭和33年に取り壊されたという。 私が8歳の時なので、もしかしたら取り壊される前の数寄屋橋を、渡ったことがあるのかもしれない。
サラリーマン天国のJR高架下
山下門から数寄屋橋門にかけてのJR高架下は、銀座や日比谷のお洒落な雰囲気とは異なり、新橋のようなサラリーマン天国である。 つまり早い人は夕闇迫る前から飲み始める、サラリーマンの憩の場となっている。
高架下の飲み屋街
高架下にあるアーチ状の空間には、飲み屋やレストランが入っている。
高架下にある有名な屋台「登運とん(とんとん)」。 頭上から電車の轟音が降り注ぐ中、サラリーマン達が4時頃から飲み始め、夕闇迫る頃には女性も交えて満席となる。
数寄屋橋門跡
晴海通りの数寄屋橋交差点から、日比谷に向けて歩くと、すぐに頭上を首都高速が走る。
この首都高速は外堀を埋め立てた上に造られ、丁度首都高速の下あたりに、外堀を渡る数寄屋橋が架けられていた。
数寄屋橋門方向を見る
高速の下に数寄屋橋が架かり、その向こう側に立つ有楽町マリオンのあたりに数寄屋橋門があった。
数寄屋橋跡の碑
首都高速脇の小さな広場には、数寄屋橋跡の石碑がある。 数寄屋橋は昭和33年に高速道路建設の為に取り壊され、その石材を利用して建てられたそうだ。
江戸切絵図で見る
左上が数寄屋橋門、左下が山下門である。 外堀のカーブは、現在の首都高速のカーブとほぼ一致する。
地図の右側の川は三十間堀川で、戦後の瓦礫処分の為に埋め立てられた。 現在の晴海通りの三原橋地下街のあたりである。
南町奉行所跡
数寄屋橋門のすぐ内側には、南町奉行所があった。 時代劇でお馴染みの大岡越前守や、遠山の金さん(遠山金四郎景元)の仕事場である。
JR有楽町駅前のイトシア近辺には、いくつかの遺構が残されている。
南町奉行所跡の石組
有楽町イトシア前の駅前広場に、再開発時に発掘された石組が再現されている。
穴 倉
イトシアの地下には、南町奉行所の地下室として使われた木製の「穴倉」が、壁に立てた状態で展示されている。
伊勢神宮の神官が、大岡越前守の家臣宛てに出した木札も併せて出土したそうだ。
江戸切絵図で見る
数寄屋橋門を入ると、右手に南町奉行所がある。 この切絵図は1865年の慶応元年のものであるが、当時は根岸肥前守が奉行であったようである。
有楽町から銀座にかけての江戸切絵図を見ると、当時から京橋から新橋に向けて一丁目から八丁目まであったことがわかった。 今も昔も変わらない部分があることに、思わず感心してしまった。