旅行日:2023年5月26日
滋賀県近江八幡市の安土町は、戦国時代の雄「織田信長」が天下統一を目指した拠点である。
安土城は水上交通の要衝・琵琶湖のほとりに立ち、中山道や北国街道などの街道を押さえ、京や信長の本拠地である美濃・尾張との中間点にある。 まさに天下統一の拠点として最も適した場所だったのだろう。
中山道を歩く旅で武佐宿まで来たが、中山道歩きをやめて安土城へ行こうと寄道である。 安土の駅前からレンタサイクルを利用して、いざ安土城へ ・・・
レンタサイクルを借りる
JRの安土駅前にあるレンタサイクル屋で自転車を借りる。 お店の人に観音寺城に行くことを聞いたら、「結構な山で、電動ではないのでやめた方が良い」とのことなので、観音寺城はあっさりと諦めた。
JR安土駅
安土駅前には信長の像が立っている。 それにしても安土城の絵で飾られた駅は派手だ!
駅前でレンタサイクルを借り、安土城目指して走り出す。
途中「朝鮮人街道」の石柱が立っていた。 中山道の鳥居本宿で分岐した朝鮮人街道は、ここを通っていたようだ。
田植えの終わった水田を眺めながら、安土城跡を目指す。
安土城めぐり
安土城は標高198mの安土山に築かれた山城である。 本格的な天守を持つ城は安土城が初めてと云われるが、完成から僅か3年で「本能寺の変」が起こり、その数日後に原因不明の火災により焼失した。
しかし現在でも良好な状態で石垣や本丸跡、重臣たちの住居跡などが残り、当時の面影を見ることができる。
大手道 安土城の象徴
目の前に一直線に伸びる石段。 安土城正面玄関である大手門から、山頂部に築かれた本丸・天守に至る大手道である。
石段は405段あるそうで、入場受付には無料で杖が貸し出されているが、杖には頼らずに山登りを開始する。 年寄りの冷や水というものだ・・・
伝 羽柴秀吉邸跡
石段を少し上ると、左に「伝 羽柴秀吉邸跡」が現れた。 もちろん石垣以外は何もないが、敷地の広さから立派な屋敷であったことが伺える。
大手道を挟んだ反対側は「伝 前田利家邸跡」 さらに右側上方の摠見寺本堂付近は、「伝徳川家康邸」という戦国時代のビッグネームが並ぶ。
往時の大手道を下から見上げれば、ひな壇状に屋敷が立ち並ぶ姿が見えたのだろう。
森蘭丸(成利)の屋敷跡
大手道の直線的な石段を終えると、道はくねくね曲がりながら傾斜を増し、まだまだ石段は続く。
信長の小姓として仕えた「伝 森蘭丸邸址」が現れる。 森蘭丸は二人の弟と共に、本能寺の変で討たれた。 享年18。
写真にはないが、この左には「織田信澄邸址」の碑が立っていた。 帰宅後調べると、信長の甥のようだ。
黒鉄門跡と仏足石
黒鉄門は安土城の主郭部に入る関門で、鉄板(黒鉄)で全面を覆った門であったという。
一般的に天守閣に城主が暮らすことは無かったようだが、信長は実際に天守を生活の場にしていたので、厳重な警備体制を敷いていたのだろう。
黒鉄門跡
クランク状に2回折れ曲がって安土城中枢に入る枡形虎口である。 門を構成する石垣には大きな石が使われ、厳重な門の姿が偲ばれる。
仏足石
昭和初期に登山道整備工事の最中に、崩れた石垣の中から発見された仏足石。
石垣の一部として利用された「転用石」で、大手道の石段でもいくつかの石仏が見られる。 「神をも恐れぬ・・・」と思うが、他の城でもあることで、明智光秀が築いた福知山城の転用石は有名である。
本丸跡から天守跡へ
安土城訪問といっても、ひたすら石段を登り、ひたすら石垣を見るだけである。 しかし本丸跡から天守台へと、いよいよ山登りも大詰めである。 信長やその家臣たちは毎日が山登りの生活。 観光客のちんたら歩きと違い、ダッシュで上り下りしていたのだろう。
本丸跡
天守台を眼前に仰ぐ本丸御殿跡。
説明版によると、信長は天皇を安土城に行幸させることを目論んで、この本丸御殿に天皇の住まいである「清涼殿」に酷似した建物を造り、その中に「皇居の間」を設けたという。 残念ながら行幸は実現しなかった。
天守跡
最後の石段を登れば天守跡である。 礎石が並ぶだけだが、ここに5層7段の天守がそびえていた。 各層は朱や青、白で塗られ、最上階は金色だったという。
信長公本廟
天守台から二の丸跡を見下ろすと、信長公本廟が見える。
「本能寺の変」翌年の天正11年(1583)に、羽柴秀吉が築いたもの。 信長の太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬したという。
天守台からの琵琶湖遠望
天守台から琵琶湖を遠望する。 現在は干拓されて平地が広がるが、築城当時の琵琶湖はすぐ近くまで迫っていたという。
織田信雄の供養塔
二の丸の下には、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)と、その子孫4代目までの供養塔が並ぶ。 「本能寺の変」から数日後に安土城は燃え落ちたが、この信雄が火を放ったという説があるそうだ。
摠見寺(そうけんじ)経由で下山
天守閣からの帰りは、来た道を途中で右に曲がり摠見寺(そうけんじ)を目指す。
摠見寺は安土城築城時に、信長が近隣の寺社から移築したもの。 安土城焼失時に焼け残ったが、安政元年(1854)に本堂は焼失した。
西の湖を望む
摠見寺の本堂跡からは、西の湖を望むことができる。
三重塔
本堂は焼失したが、室町時代といわれる三重塔が残る。 信長が甲賀の寺院から移築したと伝わり、豊臣秀頼による一部修理などを経て、現在にその姿を留めている。
百々橋道
三重塔から仁王門を潜って百々橋口へ下る。 安土城の外堀に架っていた橋が百々橋(どどばし)である。 百々橋口からの道は、安土城を訪れる人や家臣たちが登城する際の通用口だったそうだ。
百々橋道と呼ばれる山道を通って、入城時の大手道方向に進む。
やがて「伝 羽柴秀吉邸址」の横に出て、大手道に戻ってきた。
「天下布武」の御朱印
大手道の受付窓口で、信長が印章に用いた「天下布武」の御朱印を入手。
安土城天守信長の館
復元された安土城天守を見に、チャリで「信長の館」に移動。
中に入ると、ドド~ンと金箔キラキラな天守が・・・ 上層部だけだが、信長らしい派手さがある。
近江牛のランチ
昼食時刻を大きく回り、お腹が空いたので「信長の館」を早々に切り上げ、レンタサイクル屋で仕入れたランチ情報の店に向かい、近江牛ステーキランチを食す。
肉は柔らかく美味しかったが、右上にある近江独特の赤こんにゃくは、味のないただのこんにゃくだった。
とりあえず腹を満たし、安土の駅に戻りレンタサイクルを返却。 安土の町も探せば古い町並みが残っていそうだが、あまり時間も無くなったので帰途に就くことにした。
現在の安土城の周りは水田や畑が広がり、城下町は無かったように見える。 しかし豊臣秀吉の天下となり、豊臣秀次が八幡山城を築くと、安土城の城下町は近江八幡に移され、安土城は昭和15年に発掘されるまで埋没することになったという。
信長が滅ぼした越前朝倉氏の一乗谷のような話である。 戦国時代は面白い・・・