旅行日:2022年11月12日
中山道歩きを中止し、彦根市の観光に時間を費やした。 まず最初は彦根城下町にあった袋町遊郭跡である。 今はスナック街と化した路地もあるが、往時の雰囲気を残した遊郭跡を、明るい健康的な時間帯である朝の9時過ぎからうろつき回った。
夜の雰囲気とかけ離れた旧遊郭街の見学を終え、次は彦根市のシンボルである彦根城に向かう。
彦根城の天守閣は1606年に完成したといわれ、2022年には築城416年となる。 「ゆるキャラ」の元祖のような”ひこにゃん”が人気だが、昔の天守閣がそのまま残る、現存12天守のなかで国宝に指定されている天守の一つである。
二の丸佐和口から入城
”いろは松”と呼ばれる堀沿いの松並木を進み、表門である二の丸佐和口から入城する。
佐和口には左右に多門櫓が立ち、左側は江戸時代中期の建物。 国の重要文化財となっている。
枡形を抜け、振り返る。
怠惰な”ひこにゃん”
開国記念館入口で、寝そべったままお出迎えをする”ひこにゃん”。 いかにも”ひこにゃん”らしいが、今回は実物に会えなかった。
玄宮園と楽々園
佐和口から城内に入り反時計回りに歩きはじめ、幕末に桜田門外で暗殺された井伊直弼の像などを見て、玄宮園とか楽々園と呼ばれる庭園に向かう。
玄宮園 素晴らしい天守閣の眺め
大きな池とそれをめぐる遊歩道を持つ、回遊式の広大な庭園。 中国の玄宋帝の離宮にちなんで名付けられたという。
池畔には風雅な建物が水面に影を落としている。
さらに背後に目を向けると、対岸にそびえる天守閣の眺めが素晴らしい。
楽々園 井伊直弼もここで生まれた
槻(けやき)御殿と呼ばれている二の丸御殿。 幕末の大老・井伊直弼はここで生まれたという。
江戸時代後期の御書院が残り、隣接する玄宮園とともに、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。
黒門橋から天守閣を目指す
関ケ原の戦いにて石田三成が敗北。 徳川譜代筆頭の井伊家が、石田三成の居城であった佐和山城に入り、畿内・西国諸勢力への押さえの役割を担った。
その後近江の豊臣色を一掃するため、小谷、大津、佐和山、安土、長浜の各城が廃され、その資材を利用して彦根城が築かれたという。
黒門橋で内堀を渡り、黒門山道を登って天守閣を目指す。 天守閣のある本丸は、彦根山の頂上にあり、彦根山の別名・金亀山の名から「金亀城(こんきじょう)」とも呼ばれている。
井戸曲輪から望む圧巻の高石垣。
上を見上げると天守の一部が見え、黒門山道を登りきると西の丸に到着である。 西の丸には小谷城から移築された三重櫓が残る。(写真はない)
国宝 彦根城天守閣
大津城の天守を移築したという彦根城天守閣。 3層3階建てで、唐破風・千鳥破風を組み合わせ、ところどころに花頭窓を設けた優美な造りである。
明治に入り取り壊される寸前だったところを、明治天皇の北陸行幸に際し、地元の訴えが認められ、勅命により破壊を免れたという。
バリアフリーとは無縁の、ハシゴに近い急階段を上って天守閣の中に入る。 昔は蝋燭などの灯りだけだったので、夜は相当暗かったことだろう。 そもそも平時の夜は、天守閣内に人が居たのだろうか?
太鼓門櫓
この太鼓門を解体修理時に、どこかの城の城門であったことが判明したという。 しかしどこの城から移築してきたのかは不明のままだそうだ。
天秤櫓と廊下橋
大手門と表門からの道が合流する部分に建てられた天秤櫓。 井伊家に伝わる「井伊年譜」には、この門は長浜城の大手門を移築したとあるそうだ。
しかし 移築された建物であることは確認されたが、長浜城からとの断定はできていないとのこと。
門を抜けると廊下橋。 昔は名の通り屋根が付いた橋だった。
天秤櫓を抜け、廊下橋から大堀切と呼ばれる空堀を見下ろす。 結構な高度感である。
本丸防御の要ともいえる天秤櫓には、鉄砲や矢の狭間がない。 格子窓から敵を迎え撃ったのか? また いざという時にはこの橋を落し、本丸への侵入を防ぐ仕組みとなっていた。
現在の橋脚はコンクリートの基礎に立っているが、昔は石垣に橋脚を立てていたそうで、現在も石垣上に穴が見られる。
それにしても橋が落されたら、本丸へ侵入するにはこの高い石垣をよじ登らなければいけない。
彦根城は天守閣だけでなく、周りに立つ櫓も様々な城から移築した寄せ集めの城である。 おそらく豊臣家との決戦に備え、急ピッチで築城する必要があったのだろう。
廊下橋の下を潜り、表門山道から表門、佐和口を経て下城する。
彦根市内は城下町の名残が比較的よく残り、周辺には武家屋敷の典型である長屋門がいくつか残る。 さらに佐和山城址近くにある井伊家菩提寺の清凉寺は、石田三成の重臣であった島左近の屋敷跡だともいわれる。
まだまだ訪れたい場所はいくつも残るが、今回はここで終了。 次は北陸線で移動し、琵琶湖北部にある渡岸寺の十一面観音像とのご対面に行こう。