訪問日:2013年11月19日
蔵の街として知られる栃木県栃木市。 戦災を免れたおかげで、市街地には江戸から明治にかけての蔵造りの家が多く残る。 江戸時代には市内を流れる巴波川(うずまがわ)の舟運が盛んで、さらに日光例幣使街道の宿場町として賑わいをみせていたそうである。
栃木市という名から県庁所在地かと思われるが、県庁所在地は宇都宮である。 山梨県も同様に山梨市があるが、県庁所在地は甲府である。 県名と同じ名を持つ栃木市や山梨市の市民は、県庁が無いことをどう思っているのだろう。
蔵の街 栃木市
栃木市は巴波川の舟運により、江戸と日光や南会津などの後背地との物資の集散地として栄えたそうである。 利根川や渡良瀬川を大型船で江戸と結び、途中で高瀬舟に積み替えて巴波川を遡行して栃木まで運んだようである。
しかし市内を流れる巴波川を見ると、とても舟運が盛んであった川には見えない。 現在は観光船が川面をゆったりと浮かんでいる。
【巴波川(うずまがわ)】
巴波川沿いの黒塀は、栃木市を代表する風景である。
【郷土参考館】
江戸時代に質屋を営んでいた坂倉家の母屋と土蔵を利用している。
中には様々な昔の生活文化の資料が展示されている。
なかでも目を引いたのは、私が勤めていた会社の古いレジスターである。
大正初期の米国製で、現在の高級車が買えるくらい高価なものであった。
【栃木蔵の街美術館】
約200年前に建てられた土蔵3棟を改修し、美術館として利用している。
栃木市に現存する約250の蔵の中でも、最古の土蔵群に属するとのこと。
通称「おたすけ蔵」と呼ばれている。
【お助け蔵とは】
江戸時代に、この蔵の持ち主であった豪商の善野家が、困窮者救済のため多くの銭や米を放出したこととか、失業対策として蔵の新築を行ったなどが「おたすけ蔵」の名の由来である。
【横山郷土館】
明治時代に農産物の商いに成功し、金融業で隆盛を極めた横山家の店舗。
店舗の右半分が麻問屋、左半分で銀行を営んでいたそうである。
横山郷土館横を流れる水路にある横山家荷揚げ場。
ここに船を横付けし、横山家に荷揚げを行っていた。
【栃木市役所別館】
1921年(大正10年)に、県庁跡地に建てられた旧栃木町役場庁舎。
屋根に時計台を持ち、当時は洒落た建物であったのだろう。
【栃木市と県庁】
廃藩置県後の明治6年、下野国を一つの県とする栃木県庁の所在地となったが、明治17年に県庁は宇都宮へ移されたそうだ。 これには色々な事情が考えられるが、栃木県での自由民権運動の拠点であった栃木を、当時の県令が嫌ったことも一つの理由だとされているそうだ。(栃木市HPより抜粋)現在は栃木市役所別館を囲む「県庁掘」に名を残している。
【蔵の街大通り】
「蔵の街大通り」を歩くと、道の左右に多くの蔵を見ることが出来る。
細い横道に入ると、少々崩れかけた蔵を利用した飲み屋などもある。
日光例幣使街道
朝廷から例幣使と呼ばれる勅使が、毎年春に徳川家康を祀る日光東照宮に通った道が日光例幣使街道である。 中山道の倉賀野宿で分岐し、佐野・栃木・鹿沼を通って日光に通じ、栃木は宿場町としても栄えた。
本来は奉幣使と呼ばれ、天皇から授けられた金の幣帛(へいはく)を神前に奉納する役目の公卿を指すが、毎年行われたので例幣使と呼ばれるようになった。 この行事は1646年から大政奉還の1867年までの221年間、毎年欠かさずに行われたそうで驚きである。
【現在の例幣使街道】
栃木市内の嘉右衛門町あたりで、往時の街道姿を忍ぶことができる。
【陣屋跡なども残る】
この写真は平澤商事という現役の店であるが、
この先には江戸時代の旗本畠山氏の陣屋なども残る。
その他の栃木市内の建物
街中を歩くと多くの蔵や木造の家を目にする。 建物の名とか由来はすべて判らないが、全体的に重厚感のある蔵が多く「蔵の街」の名にふさわしい雰囲気を持っている。
漫然と蔵を見て歩いても面白くないので、栃木駅の観光案内所でパンフレットを入手することをお勧めする。