旅行日:2019年12月13日
野尻宿から三留野宿までの、わずか1宿分、約10kmほどの短い街道旅の後半である。
十二兼の水路トンネルで、猿たちからの思わぬ歓迎を受けたが、十二兼の駅で少し休憩して街道旅の後半戦を続けることにした。
野尻から十二兼までは、大半が静かな旧道を歩くことができる。 しかし十二兼から先は、2km以上の国道歩きが待っている。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 計画路 | GPS | 万歩計 | |
---|---|---|---|---|---|---|
2019年 12月13日 |
野尻宿~三留野宿 | 2里21町 | 10.1Km | Map | GPS | 21,285歩 |
合 計 | 2里21町 | 10.1km | — | — | 21,285歩 | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 26日目) |
79里24町 | 312.9Km | — | — | 548,517歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
計画路 : 現代の旧中山道ルート図で、歩く予定のコース。
「GarminConnect」を利用してGoogleMap上に作図。
GPS : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図。
十二兼一里塚跡碑
十二兼駅の跨線橋を渡って国道に出て、京都方向に少し進む。 やがて国道左側に「十二兼一里塚跡碑」を見ることができる。 日本橋から78里、京へ59里である。
柿其水路橋に寄り道
旧道に戻り先に進むと、右に柿其(かきぞれ)橋が現れる。 この柿其橋を渡って「柿其水路橋」という巨大建造物を見に寄り道をする。
柿其橋からの眺め
柿其橋から眺める木曽川は、大きな岩が多くて「南寝覚」とも呼ばれているそうだ。 上流に柿其渓谷を持つ柿其川との合流点でもある。
山中に突然巨大なコンクリート建造物が現れる。 大正12年(1923)に建設された、読書ダムから読書発電所への導水路である。
どのくらいの水量なのかを見ようと、水路脇の斜面を上って水路の上から覗いてみた。 残念ながら底の方に少し水があるだけであったが、水路内側の壁面には結構な高さまで水の流れる跡が付いていた。
中山道最大の難所「羅天の桟道」
柿其水路橋から戻り、再び街道を進むと国道に合流する。 国道の進行方向を見ると左右から山々が迫り、木曽谷らしい険阻な道のりが待ち受けているようである。
羅天の桟道
中山道最大の難所と云われた「羅天の桟道」にさしかかる。 山の険しい断崖が木曽川の両岸に迫り、往時は僅かな平坦に通路を拓き、通路も確保できない場所には桟道を架けたという。
現在は崖を削り、川岸に擁壁を設け、コンクリートで固められた安全な国道になっている。
与川との合流点付近の木曽川は、大きな石がゴロゴロしている。 上流にダムができて、水量が減って川底が現れているためだろう。 ダムなどなかった昔の木曽川は、さぞかし水量豊かで、迫力に満ちた流れを見せていたのだろう。
金知屋集落
国道のすぐ脇に旧道が残り、数軒の家が連なる小さな集落を抜ける。
三留野宿
長い国道歩きを終え、再び旧道に入って「べに坂」を上ると三留野宿である。
日本橋から41番目の宿場で、「三留野」の名の由来は、昔 木曽路の官舎があった、あるいは中世に木曽氏の館があり、「御殿」が転化して「三留野」となったようだ。
与川道分岐
三留野宿入口の枡形で、左から与川道が合流してくる。 「羅天の桟道」など木曽川の難所を避けるため、野尻宿から与川峠を越える、全長13.5kmの迂回路である。
本陣と脇本陣跡
宿場内に古い家は少ないが、玄関に昔の屋号の看板を吊るす家が多い。
明治14年(1877)の大火で脇本陣は焼失。 跡地は説明版が無ければ気付かない。
本陣も明治の大火で焼失。 奥に残る当時の枝垂桜が本陣の名残を僅かに残している。 また大火前に明治天皇が宿泊した記念碑が立つ。
ガードレールの切れ目から、細い階段を使って下の道に降りる。 左の緩やかに下る坂道は新道なのだろう。
蛇抜けと梨子沢
木曽川やその支流を流れる水は、清々しく美しい渓谷を見せてくれる。 しかしひとたび大雨に見舞われると表情は一変するのだろう。
「白い雨が降ると抜ける・・・」。 木曽谷の言い伝えで、沢を蛇が抜けていくように見えることから、土石流のことを「蛇抜け」と呼ぶそうだ。
梨子沢
2014年7月、梨子沢(なしざわ)を蛇抜けが襲い、中学生が犠牲になったそうだ。 その梨子沢の復旧工事は終わったようだ。
背後の山を見ても、土石流が発生するようには見えない。 たとえ発生しても、距離があるので到達するとは思えない。 これは山の傍で生活したことの無さからくる、無知ということだろう。
民家の軒先を行く
左の南木曽小学校へ上がる階段を数段上がり、民家の前を右に曲がる。
短い距離だが砂利道となる。 「エッ! こんなとこ通るの?」と思えるような場所である。
桃介橋へ
やがて右手に南木曽駅の貯木場と桃介橋が遠望できる場所となる。
木曽谷の山林は尾張藩が藩有林とし、中でも木曽五木と呼ばれるヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラの伐採を厳しく管理したという。
和合集落の手前で今回の街道旅を終えることとする。 街道から右に別れ、跨線橋を越えて南木曽駅へ向かう。
桃介橋へ寄り道
南木曽駅を通り越し、途中で遠望した桃介橋を見に行く。
木曽川の水力発電に力を注いだ大同電力(現中部電力)の社長・福沢桃介が、が読書発電所建設の資材運搬路として、大正11年(1922)に架けたもの。
橋脚の上には細い線路が残されている。 トロッコがあったようである。
十二兼にある「柿其水路橋」も、この桃介橋を架けた福沢桃介によって建設された。 この「福沢桃介」という人は、日本の電力王と云われているそうだ。
お土産は地酒「中乗さん」
桃介橋から駅に向かう途中、木曽谷の地酒「中乗さん」をお土産に購入。 リュックに詰め込み、担いで帰ってきた。
木曽川は川幅は狭く、流れも速いため、伐採された木材をいかだに組めなかった。 そのため1本1本ばらばらにして、中乗りさんが木材の前後左右に飛び移りながら運んでいったそうだ。
南木曽駅
南木曽駅に到着。 これで2019年の中山道歩きを終えることにした。 次は寒い冬を避けてしばらくお休み。 再開は2020年4月頃から、新緑か桜の時期を狙って、妻籠から馬籠宿へと歩くことにしよう。
次回妻籠や馬篭宿を訪れる時は、新幹線を利用して名古屋経由で南木曽まで来る方が早い。 今回の帰りも名古屋経由のほうが早いのだが、最後にもう一度車窓から山々を眺めながら帰ろうと、塩尻経由で帰京した。