旅行日:2022年11月11日
日本橋から62番目の宿場・番場宿には、古代東山道の宿駅があった。 そして中山道が制定され、米原湊を経て琵琶湖の水運に通じる宿場として栄えた。 また番場の名を有名にしたのは、長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公「番場の忠太郎」で、映画や舞台、テレビなどで数多く上演されたという。
山間の小さな宿場で、宿の長さは中山道で最短である。 現在も主要交通路から外れたひっそりとした住宅地だが、家屋は殆んど建て替えられ、昔の面影は残されていなかった。
コースデータ
- 日 付 :2022年11月11日
- 街道地図 :柏原宿~醒井宿~番場宿~鳥居本宿
- 宿間距離 :柏原宿 ~醒井宿 1里(3.9Km)
- :醒井宿 ~番場宿 1里(3.9Km)
- :番場宿 ~鳥居本宿 1里1町(4.0Km)
- 日本橋から:累計117里25町(462.1Km)
- 万歩計 :27,323歩
※ 街道地図はGPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogleMap上に作図
面影を失った六軒茶屋
醒井宿の京口であった西見附跡に立つ、「番場宿へ一里」と刻まれた道標を後に番場宿へと向かう。
県道を渡ると、往時「六軒茶屋」と呼ばれ、その名の通り6軒の茶屋が並んでいた場所がある。 安藤広重の浮世絵にも描かれた場所で、ここには数年前まで1軒だけ現存していた。 しかし今回訪れると、残念ながら解体されて更地となり、街道の面影は失われていた。
河南集落
醒井宿を出て交通量の激しい国道21号を少し歩き、やがて右に分岐する旧道に入り、河南から樋口の集落へと入って行く。
一類狐魂等衆碑
国道21号に合流すると、何と読めばよいのか判らない石碑が立つ。 面白い伝承が残り、要約すると下記のようになる。
「母親の乳が飲みたい・・・」とつぶやく旅の老人に、乳飲み子を抱いた一人の母親が「私の乳でよかったら」とおっぱいを老人の口に含ませると、目に涙を浮かべ「懐に70両の金があるので貴方に差し上げます。」と云い、その場で安らかに往生をとげた。 この母親は老人の墓地の傍らに、老人のお金で「一類狐魂等衆」の碑を建て供養したと伝えられている。
良い話ではあるが、今なら警察が呼ばれてしまう・・・
国道21号から旧道に入り河南の集落を進むと、鉄骨の囲いと屋根に守られた地蔵堂が立つ。
街道を左に入った道路脇に、鐘楼を持つ徳法寺。
樋口から息郷集落へ
樋口集落に入ると街道沿いに用水路が流れ、醒井宿に似たような風景だが、全体的に明るく開けている。
国道21号を渡り息郷の集落に入り、敬永寺の前を進む旧中山道。 静かな時間が流れているようである。
久禧一里塚から番場宿へ
旧中山道は北陸自動車道の高架下を潜り、久禮の集落へと入る。 地図で見ると、街道の左側は北陸自動車道と名神高速の米原ジャンクションであった。
久禮一里塚跡
北陸自動車道の高架下を抜けると、日本橋から117里の久禮一里塚跡碑が立つ。 一里塚の遺構は残っていないが、公園のような緑地が整備されている。
一里塚跡を過ぎると久禮の集落であるが、すぐに人家は途切れる。
そして左に田畑が広がり、その向こうに高速道のフェンスが続いている。 街道は里山の雰囲気の中、楓の並木を進むと番場宿はもう近い。
番場宿に入る
江戸幕府により中山道が整備される以前から、古代東山道の宿駅であった番場宿。 東山道の時代には現在の西番場あたりに宿駅が置かれていた。 しかし琵琶湖の水運が発達し、米原湊へ通ずる道が開かれると、宿場機能は東へと移動し、中山道の番場宿となった。
民家の生け垣に「問屋場跡」の石碑が立つ。 琵琶湖の水運を利用した物資の往来も盛んだったせいか、小さな宿場には問屋場が6軒もあったという。
番場宿東の入口付近には、多少宿場の面影を残す所もある。 写真正面の家の前にも問屋場跡の碑が立っていた。
県道との交差点は、米原湊に通じる道の追分である。 交差点角に明治時代に建立された「米原汽車汽船道」と彫られた道標が立つ。 写真では良く判らないが、道標の一番上”米”の文字の上に、右方向に向いた指差しマークが彫られている。
番場宿脇本陣跡と問屋場跡が並ぶ。 すぐ先は本陣跡だが、遺構は何も残っていない。
街道沿いに地蔵堂が残る。 お堂の横には、風化した石仏が置かれている。
蓮華寺 血の川が流れた
街道を左に折れ、名神高速道の高架を抜けると蓮華寺がある。 鎌倉幕府滅亡時に、六波羅探題の北条仲時が東国に落ち延びる際、当地で南朝軍の重囲に陥り、やむなく北条仲時以下432名が自刃したという。
蓮華寺山門 (勅使門)
左下に「血の川」の説明版が立つ。 「本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す」とある。 元弘3年(1333)5月9日のことである。
蓮華寺本堂
蓮華寺は聖徳太子による創建といわれ、当初は法隆寺と呼ばれたようだ。 しかし落雷により焼失、その後再建されて蓮華寺になったという。
この本堂の前庭で自刃しのだろう。 しかし432人とは壮絶としか言いようがない。
北条仲時墓所
北条仲時ら430余名の供養塔は、境内の右手奥、山へと続く参道をあがった所にある。 小さな墓がびっしりと並び、思わず手を合わせてしまう。 合掌・・・
ちなみに北条仲時の墓は、街道を挟んだ反対側の山の中腹に移されている。 なんでも江戸時代に彦根藩主の井伊の殿様が馬に乗って蓮華寺を参拝し、その夜「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と、仲時に夢の中で叱責されたことから、山頂に仲時の墓だけを移転したという。
西番場へ 古代東山道の宿駅があった
街道は西番場へと入る。 東山道の宿駅があったが、中山道が制定されると東番場へ宿場の機能は移ったという。 しかし西番場の町並みは、東番場よりも旧街道の面影を残している。
東山道の宿駅を示す石碑が置かれ、「中山道 西番場 古代東山道 江州馬場駅」と彫られている。 昔は”馬場 ”と書いたようだ。
西番場公民館の前に地蔵堂があるが、街道に面せずに西を向いて建てられている。
番場宿の西のはずれに「番場宿碑」が立つ。
番場宿の蓮華寺には北条仲時らの供養塔だけでなく、「番場の忠太郎地蔵尊」も祀られている。 長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公「番場忠太郎」の出身地とされるが、今の若い人たちは名前も知らないだろう。 かくいう私も名を知っている程度で、読んだことも舞台や映画も見たことはない。
番場宿を後にして小摺針峠、摺針峠と2つの峠を越えて鳥居本宿へと向かう。 摺針峠からは琵琶湖を望むことができるという。 楽しみである・・・