旅行日:2022年6月9日
中山道の加納宿(現岐阜市)から美江寺宿まで歩いた時、大垣市内のホテルに宿泊した。 せっかく大垣に泊まるので、少し時間を割いて大垣市内を歩いてみた。
大垣と云えば、松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」である。 「奥の細道」と同じルートである日光街道を以前に歩いたが、この時に「矢立初めの地」である千住宿を訪れた。 今回「むすびの地」を訪れることで、超一足飛びに奥の細道完歩!! と言いたいのだが・・・
ついでに大垣市内にあった旭遊郭跡を訪れ、昔日の面影を探してみよう。
水都大垣と「ミニ奥の細道」
大垣は湧水が豊富で、「水都」と呼ばれているそうだ。 大垣名物に「水まんじゅう」が有名だが、この湧水を利用したものだろう。 地図を見ると、大垣城の外堀として水門川が城に沿って流れ、そこに「ミニ奥の細道」として遊歩道が整備されている。
【 八幡神社の湧水 】
一段低い場所に井戸のような形で枡が作られ、こんこんと湧き出ている。 地元の方なのか、焼酎か何かの大きなペットボトルを何本も持って汲みに来ている。 私もペットボトルの水を捨て、新たに湧水を満たして街歩きに出発である。
【 ミニ奥の細道 】
松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句を、水門川沿いの遊歩道に句碑として設置してある。 「夏艸や兵共が夢の跡」とか、「閑さや岩にしみ入蝉の声」、「 さみだれをあつめて早し最上川 」、「荒海や佐渡によこたふ天河」など、有名な句程度しか知らなかった。
小さな子供たちが、魚にエサをあげていた。 しかしよく見るとどうも違うようだ。
左端の子供の部分を拡大してみると・・・ こんな所にカワウソがいるとは思えないが??
【 奥の細道 むすびの地記念館 】
「奥の細道」に関連した資料などを展示している。 しかし着いた時に丁度閉館し、係の方が入口の鍵を閉めるところだった。
水門川沿い遊歩道。 近くには松尾芭蕉の像も立つ。
【 船町港跡 】
船町港跡には住吉灯台が復元されている。 船町港は大垣藩により設置され、西濃地域の人や物資交流の拠点だったという。 松尾芭蕉は、ここから船で桑名へ下り、帰途についたそうだ。
大垣城
関ケ原の戦いにて、石田三成ら西軍の主力が大垣城に入城し本拠地とした。 しかし その後関ケ原に移動・布陣して野戦で挑んだが敗れてしまった。 この大垣城は戦前の昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、残念なことに昭和20年(1945)の大垣空襲で焼失。 その後昭和34年(1959)に再建された。
1985年再建の大垣城西門。 櫓門だが門扉が無かったような気がする。
大垣藩の初代藩主”戸田氏鉄”の像の後ろに天守閣がそびえる。 天守閣は4層で、全国的に珍しいそうだ。 やはり「4」は縁起が悪いということだろう。
東門からの天守閣。 柳口御門を移築したそうだが、堂々とした櫓門である。
中山道の鵜沼宿を訪れた時、この大垣城の鉄門が移築されれていた。 そこで実際の大垣城の「鉄門跡」にも立ち寄ってみた。
大垣城の怪しげスポット
現在の大垣城は市街地が城の目の前まで押し寄せて来ている。 駅前からの広い道に出ようと城を出た途端、目に飛び込んできた怪しげな洞窟。 昼でも暗い、廃墟のような路地である。
ウォ~ しびれる!! 勇気を出して入ってみよ~ぉ。
カウンター席しか無いような、小さな飲み屋が連なっている。 夜はどのような雰囲気なのか、興味ある飲み屋街である。
大垣市内の街並み
大垣市内の古い街並みを探して適当に歩いてみた。 大半が新しい家やビルに建て替えられた中、ときたま古そうな風格ある家が現れた。
大きな屋根を持つ家に挟まれた洋風建築。
ベンガラ色の建物。 仕出し屋のようである。
重量感ある建物。 このまま残してほしいものだ。
旅館の看板を掲げているが、営業はしていないようである。 しかし緑も多く、良い雰囲気を持っている。
老舗の和菓子屋さん。 濃尾地震直後に建てられたそうで、彫り物のある看板が目を引く。 営業時間外となってしまったので、店内は見ることができなかった。
旭遊郭跡へ
大垣には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が一夜で築いたと伝えられる、墨俣一夜城がある。 墨俣(すのまた)は美濃路の宿場町であり、長良川と揖斐川に挟まれた重要な宿場であった。 そんな理由からか、すぐ近くには「夜城園」という遊郭があった。 それにしても「夜城園」という名は、何とも言えない艶めかしい響きがある。
この「夜城園」に行きたかったのだが、アクセスが悪いので諦め、代わりに市内にあった「旭遊郭」跡といわれる藤江町を目指して歩きはじめた。
藤江町に向かう途中で見つけた、ベンガラ色の家。 妓楼ぽい建物だが、旭遊郭があった場所からは離れている。
ベンガラ色の建物の向かいにも、”オヤッ!”と思うような建物が。 何か商売をしていたのだろうが、増築した部分を撤去すれば雰囲気のある建物になるだろう。
旭遊郭があったという藤江町。 明治22年に開業し、最盛期には貸座敷19軒、娼妓数177人がいたそうだ。 しかし残念ながら多くの妓楼は取り壊され、色街の名残りは殆んど無かった。
そんな中、抜群の存在感を示す妓楼建築が現れ、重厚な造りの唐破風屋根に見入ってしまった。 しかし個人宅としてお住いのようなので、写真をパシャパシャと撮るのも気が引け、この1枚だけの掲載である。
大垣という名からは、東京駅発23時30分前後の東海道線大垣行きの鈍行列車を思い出す。 夜行列車の終着駅だが、この大垣で下車することは無く、多くの客は単なる乗換駅として、さらに西に向かった。 かなり昔の話だが、貧乏学生時代に関西方面に遊びに行くのに利用したことがある。 今回初めて大垣を訪れたが、何となく昔の鈍行旅に決着がついたような気もする。
大垣行の鈍行は、その後「ムーンライトながら」と姿を変えたが、この列車も今は時刻表から消え去っている。