旅行日:2020年11月25日~26日
信州の城めぐりの1日目は、小諸城(懐古園)と海野宿をめぐり、別所温泉の旅館「花屋」で一泊。翌日は真田幸村に代表される、激動の戦国時代を駆け抜けた真田一族ゆかりの城を訪れた。
弱小勢力であった真田家は、織田、上杉、北条、豊臣、徳川といった強力な戦国大名の脅威にさらされながらも、猫の目のように変わり身早く自領の安泰を計った。 そして徳川の時代に、上田から松代へ移封はあったものの、幕末まで松代藩を領して「真田」の名を残した武門の家である。
別所温泉の寺めぐり
別所温泉には、国宝や重要文化財などを持つ、由緒ある寺が点在している。 上田の西に広がる平地は「塩田平」という名で、古くから仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と呼ばれているそうだ。
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北向観音
単に北側を向いた観音様だと思っていたが、縁起を読むと「南向きの善光寺と相対し、古来両尊を参詣しなければ片詣りになる」といわれているそうだ。
北向観音本堂と、奥に薬師堂が見える。
温泉薬師瑠璃殿。「医王尊瑠璃殿」と呼ばれる薬師堂。
善光寺は何度も訪れたが、向き合う相手があったとは知らなかった。 今回は善光寺を詣でる予定はなく、片詣りとなってしまう。 いつか両方を詣でてみよう・・・
安楽寺と国宝・八角三重塔
安楽寺は鎌倉の建長寺と並んで、日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つだそうだ。 長い石段を登り山門をくぐると、大きな屋根が印象的な本堂が見えてくる。 かつては茅葺屋根だったのだろう。
本堂でお詣りを済ませ、国宝である「八角三重塔」に向かう。 本堂から更に石段を登ると、木々の間から八角三重塔が徐々に姿を現してくる。
八角三重塔は、その名の通り八角形の屋根を持つ三重塔である。 四重の屋根を持つ外観だが、一番下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる庇に相当するものだそうだ。
上田城 徳川を二度にわたり撃退した
1583年に真田昌幸によって「上田城」が築城され、強国に囲まれながらも戦国の世に存在を輝かせた真田家の本拠地となる。
真田昌幸が築城した当初の上田城は平城だったが、後に「上杉から徳川を守る」と家康を言いくるめ、家康に城を建てさせたという。 そして築城後は徳川を裏切り、上杉側に寝返ったのである。
よく言えば智謀溢れる策略家で、悪く言えば人を裏切る卑怯者ということだが、これも戦国時代の生き残り策なのだろう。 NHK大河ドラマ「真田丸」で、草刈正雄が真田昌幸役を演じたが、とぼけた顔した策略家という雰囲気がよく出ていた。
東虎口櫓門と南櫓、北櫓
左右対称で美しい。 上田城には7つの櫓があったが、明治維新で廃城となり、1棟(西櫓)を残して取り払われたという。しかし2棟が市内に移築され残っていたので、現在の地に再移築したのが南櫓と北櫓だそうだ。 中央の東虎口櫓門は平成6年に復元されたという。
二の丸跡に立つ上田市立博物館前から、木の間越しに北櫓、南櫓を見る。
抜け穴伝説の残る 真田井戸
上田城内の「真田神社」は、戦略・知略に長けた真田家や、徳川との2度の戦でも落ちなかった上田城ということから、受験生や勝負事のパワースポットとなっているとのこと。
この神社脇にある「真田井戸」。 井戸の途中に横穴があり、城の北側にある砦へ通じる抜け穴があったと伝わるそうで、想像を掻き立ててくれる。 残念ながら中を覗くことはできない。
柳町通りで地酒を購入
1665年創業という岡崎酒造で地酒を買うことを目的に、北国街道の宿場町として栄えた柳町に立ち寄る。 以前に自転車で来た時、重たい酒を担いで自転車で旅を続ける気はしないので、断念したことへのリベンジである。
しぼりたて生酒と辛口の酒2本を購入。 生酒は自宅に帰って、アッという間に消え失せた。
松代城 そして真田家は幕末まで残った
松代城は、もともと「海津城」と呼ばれ、川中島の戦いで上杉謙信と争った武田信玄の前線基地で、 軍師・山本勘助が80日で築いたといわれる。
関ケ原の合戦で徳川方で軍功をあげた真田信之は、上田・沼田を安堵され、真田一族の聖地ともいえる上田城に入った。 しかし家康の死後、松代へ転封を命じられ海津城に入城。 その後 松代城と名を変えた。
太鼓門と前橋
堀に架かる前橋を渡ると太鼓門。 藩士に時や緊急を知らせるための太鼓が備えられていた。
北不明門と海津城石碑
本丸の裏口(搦手)に位置する北不明門(きたあかずのもん)は、太鼓門と同様に櫓門と高麗門からなる枡形門である。 この北不明門の横には、前身の海津城址の碑が立つ。
真田昌幸は、元々武田信玄の家臣であった。 武田家滅亡後、真田家として独立したのだが、 後に武田信玄が築いた海津城へ真田家が入るとは、何か因縁めいたものを感じる。
真田邸へ
真田邸パンフレットによると、14代将軍・家茂の時に参勤交代が緩和され、妻子の帰国が許された。 そこで真田9代藩主・幸教の義母が松代に戻ることになり、城外御殿として建てられたそうだ。
真田家は幕末まで松代藩を領し、積極的に新政府軍に加わったことにより明治政府から優遇され、明治以降は伯爵となって真田家の私邸となったという。
竹風堂で「栗あんしるこ」
天気も悪くなり、寒くなってきたので観光は終わり。 松代城向かいにある竹風堂へ向かう。 いただいた「栗おこわ」は、栗はゴロゴロ、おこわはふっくら。 そして出ました「栗あんしるこ」。
口の中に一挙に広がる風味と甘さ、トロリとした滑らかさ。 言うことなしの美味さである。
長野のスーパーは面白いものを売っていた
帰りに野菜を買って帰りたいと妻が言うので、長野IC近くのAコープへ寄ってみた。
野沢菜がたくさん売られている。 漬物になる前の野沢菜は初めて見たが、自宅で漬けるのだろう。
その他 出来損ないのような小さな大根が、ビニールの袋にたくさん詰められて売っている。 これも漬物用なのか? 更に1m近くある長い山芋が、贈答用の箱に入って売っていた。 山芋を贈る習慣があるのか?
また店の前の自販機で「お茶ばかり売っている」と思ったが、今から考えると漬物用の出汁のようである。 まさに「珍百景」。 もっとよく見て写真を撮って来ればよかった・・・
真田家生き残りをかけた「犬伏の別れ」 を考察する
徳川家康の上杉討伐に従った真田親子のもとに密使が来て、石田三成が家康を討つために大坂で蜂起したことを知らせてきた。 この知らせを受けた真田親子は3人で話し合い、昌幸と幸村は西軍(豊臣方)、信之は東軍(徳川方)に付くことを決め、東西に袂を分かち離別した。 有名な「犬伏の別れ」である。
真田家の存続をかけた、真田昌幸の深慮遠謀が働いたといわれるが、良く調べるとどうも怪しい・・・
- 真田昌幸:石田三成とは義兄弟 ? 石田三成の妻と真田昌幸の妻は姉妹だった?
- 真田信之:義父は徳川四天王の一人・本田忠勝。 娘の小松姫を娶る(家康の養女)
- 真田幸村:義父は石田三成の盟友・大谷吉継。 娘の竹林院を娶った。
こうして見ると、真田兄弟は妻選びから「徳川」「豊臣」に分れていた。 どうみても一つにまとまるとは思えない。 恐らく真田昌幸の脳裏に、「どちらが勝っても真田家は残る」という打算が働いて別れたのではないか・・・
「真田家を残す」という父・昌幸の願いを実現した真田信之。 戦国時代に瞬時に輝いて散った真田幸村。 今も変わらぬ人気の武将である。