北前船で栄えた街と遊郭跡を訪れる 三国(福井県)

三国湊

訪問日:2019年3月4日

カニを腹一杯食べようと、北陸に行くことにした。 最初は福井の越前を候補に挙げていたが、同じ福井県の坂井市にある「三国」という町に行くことにした。

「三国」は九頭竜川の河口に江戸時代から栄えた港町で、明治の頃まで北前船交易で隆盛を極めたという。

九頭竜川に沿って細長く続く街は情緒に溢れ、今なお息づく歴史文化と伝統を感じさせてくれる街並みであった。
 

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三国港きたまえ通りのレトロな風景

「えちぜん鉄道」の三国駅を起点に歩き始める。 北前船の寄港地として明治中頃まで繁栄を極め、商家や廻船問屋が軒を連ねていたという。

現在はその面影を残しつつ、静かで落ち着いた街並を見せている。

三国湊三国湊

袖壁うだつを持つ建物が並ぶ。

三国湊三国港

旧岸名家

材木商を営んでいた豪商の家で、現在は内部が公開されている。

旧岸名家

「かぐら建て」という造りで、妻入りの建物の前面に平入りの下屋(かぐら)が付いていて、正面から見ると平入りの建物に見える。

この造りは三国でしか見られない形式だそうだ。

旧森田銀行本店

1920年(大正9年)築で、北前船の廻船業を営んでいた豪商・森田家が創業。 内部は豪華な漆喰模様があるそうだが、残念ながら当日は休館日であった。

旧森田銀行旧森田銀行

三国湊座

大きな看板に「三国湊座」とある。 昔は演芸場だったのだろうか? 現在はレストランやイベントなどでの情報発信基地になっているようだ。

三国湊座

滝谷出村遊郭跡を訪ねる

港町として栄えれば、必ず花街・色街はつきものである。 この三国湊にも「滝谷出村遊郭」があった。

しかし明治に入り船運の衰退とともに港町も寂れ、遊郭としての名残りは殆ど姿を消してしまった。

滝谷出村に向かって歩く

きたまえ通りから三国港駅に向かって細い道を歩く。 「かぐら建て」の民家が迎えてくれる。

かぐら建て

口留番所跡と思案橋

口留番所跡の石碑の先に、橋とは気付かぬような「思案橋」という小さな橋が架かる。 橋の下を流れる川が、かつての福井藩三国湊と丸岡藩滝谷出村の境であった。

この「思案橋」を渡った先の滝谷出村には、三国における一大遊郭があった。

三国湊

「思案橋」という名は、「行こか戻ろか思案橋」と多くの男が思い悩んだ場所であり、各所にある「思案橋」という名を持つ橋は、概ね遊郭と関係しているようだ。

昭和レトロも残る

軒下に置かれた石造りの天水桶。 いい雰囲気を出している。

三国湊

芸妓の置屋だった「魚志楼」

明治前期に建てられ、芸妓の置屋をそのまま使った料理茶屋「魚志楼」。

三国湊

この滝谷出村遊郭の規模は、江戸時代の最盛期には遊女100人ほどを抱えていたそうだ。 しかし水運の衰退と共に遊郭も寂れ、昭和初期には貸座敷17軒、娼妓約60人(全国遊郭案内より)であり、昭和33年の売春防止法施行まで細々と続いていたそうだ。

遊女で俳人という才女がいた

左に赤い瓦を乗せた永正寺の楼門がある。 案内板によると、遊郭のお抱え遊女で俳人でもあった「哥川」という女性の菩提寺だそうだ。

三国湊

骨董屋さんで昔の話を聞く

店頭に「煙草元賣捌?」と書かれた、古い看板を下げる骨董屋さんを訪れる。

三国湊

「古い雛人形も飾っているので是非見て下さい」と座敷に通され、70代と思われる女性店主?と雑談する。

三国湊

その女性が嫁いだ頃は舟運関係の仕事だったが、景気が悪くなり煙草の一次問屋に商売替えしたそうだ。 その後煙草は専売となってしまい、さらに商売あがったりになってしまったと明るく話していた。

また嫁いだ頃の義父などは、「男の甲斐性」と当たり前のように遊郭に通っていたとの話も出て、短い時間だったが楽しいひと時であった。

 
 
雨の東尋坊を訪れた後の三国訪問であった。 この東尋坊を訪れた時、風により傘はボキボキに折れてしまった。 そのため あまり役に立たないボロ傘をさしての三国の街歩きであった。

滝谷出村遊郭を偲ばせる名残りは殆ど残っていなかったが、三国の街全体は往時の栄華を残しつつ、鄙びた雰囲気のある港町という風情で、良い街歩きができたと思う。
 
 
街歩きを終え、三国港駅の先にある「えびす亭」に宿泊。 越前ガニの猛攻に嬉しい悲鳴を上げながら、妻と二人で黙々とカニと格闘する様子はこちらをご覧ください。
 


 


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