旅行日 : 2017年04月24日
日光街道を歩くにあたって、最大の山場というか、難関と思っていた、古河から小山の間の長い国道歩きは終えた。 しかし、この先宇都宮までは面白くも何ともない街道が続くものと思える。
今回歩くコースも街道風情は消え失せていたが、国道から外れた畑の中の旧道を進むなど、多少は変化のあるコースであった。
日 付 | 区 間 | 宿間距離 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
---|---|---|---|---|---|---|
2017年4月24日 | 小山宿から 新田、小金井、石橋宿へ |
15.1Km | 16.99Km | 24,822歩 | Map | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 10日目) |
99.4Km | 133.52Km | 177,301歩 |
宿間距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
(宿間距離の数値クリックで、ルートラボの計画ルートを表示)
実距離 : 寄り道などを含め、GPSログを基に基に実際に歩いたコース距離。
(ルート欄の「Map」→ GPSログから作図した実ルートを表示)
小山宿を出発
JR宇都宮線の小山駅より石橋宿を目指して出発。 前回小山宿では、街道を外れて”小山評定跡”を訪れ、小説やテレビドラマの世界から、現実に起きた歴史を実感することが出来た。
【 開運のまち 小山宿 】
街灯に下がる幟をみると、「開運のまち 小山宿」とある。
小山評定を機に、家康は天下を取り、山内一豊は功名を得たことだそうだ。
ちょっと苦しい、こじつけのような気がするが・・・
【 興法寺 】
境内に石造りの「十三層塔」が建つ。 説明によると、東京の浅草寺に数百年間安置されていたいたものを、ゆえあってこの地へ安置したと云う。
どのような「ゆえ」があったのだろう?
日光海道 古い街道名が残る
喜沢南交差点を過ぎ、左への路地を入ると墓地がある。 この墓地に建つ地蔵菩薩の台座は、「左 日光海道・右奥州海道」と刻まれた道標になっている。 日光街道や奥州街道の、古い街道名である。
【 ”海道”から”街道”へ 】
享保元年(1716)、海に面していないので、”海道”から”街道”に改められた。
奥州街道の”州”の文字は、”刕”という文字が使われている。
新田宿への街道風景
新田宿へ向かう街道は、国道から脇道にそれて静かな道を歩く。 静かといっても、時たま頭上から新幹線の轟音が降り注ぐ。 しかし一瞬で通り過ぎるので、国道の騒音とは比較にならないほど静かな街道歩きが楽しめる。
【 日枝神社参道の大ケヤキ 】
日枝神社への参道入口に、樹齢400年といわれるケヤキ3本が残されている。
【 道標は風化して消えたのか? 】
喜沢南交差点に、馬頭観音や供養塔が立つ。
供養塔には「左 日光海道 右 奥州海道」とあるそうだが、判らなかった。
【 脇道に入る 】
喜沢南交差点を越えると、右に分岐する細い脇道に入る。
【 喜沢一里塚 】
雑木林の中に、日本橋から21里の喜沢一里塚の西塚が残る。
道路を挟んだ反対側に、東塚が半分つぶれたような形で残っている。
【 新緑の雑木林 】
JR線路の反対側には、新緑が綺麗な雑木林が広がる。
新田宿
細い脇道から、再び国道4号に合流すると新田宿である。 江戸から数えて13番目の宿場で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11件の小さな宿場であった。
【 往時の屋号 】
往時の屋号を掲げる、街道沿いの旧家がある。
この写真の家の前には「栃木屋」と出ていた。
【 新田宿本陣跡 】
街道沿いに、本陣であった青木家の四脚門が残る。
表札のように、小さく「本陣」と書かれた札が下がる。
旧道が整備されていた
羽川薬師堂などに立ち寄り、さらに国道を進む。 やがて左に「銅市金属工業」が現れ、この先を左折して旧道に入る。
過去に歩いた方々の記録では、この旧道を進むと、「やがて道は消え、雑草が生い茂って通れない」とレポートされている箇所である。
【 倉庫に隠された石仏群 】
旧道に入ると、銅市金属工業の倉庫のような建物が建つ。
この裏側には馬頭観音などの石仏があり、建物の裏手に回らないと見えない。
【 旧道を歩く 】
車両進入禁止の、静かな旧道を進む。
【 復活した旧道 】
旧道をGoogleMapで見ると、羽川住宅の先で道は消えている。
しかし実際に行ってみたら、砂利が敷かれた道が付いていた。
地元の人に聞くと、来年には舗装される予定だそうだ。
小金井宿
日本橋から14番目の宿場で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は43軒あったそうだ。 「小金井」と聞くと「武蔵小金井」が頭に浮かぶ。 昔からJR宇都宮線の「小金井」行きを見ると、どこにあるのだろう?と思っていたが、こんな所にあったのか!
【 小金井一里塚 】
国道4号沿いに、左右両塚が残る。 日本橋から22里である。
昔の街道はこの両塚の間を通り、江戸時代の道幅は9.4mあったそうだ。
【 慈眼寺 】
鎌倉時代の豪族・新田義兼により建立。
代々将軍の日光社参時に休息所が設けられた。
境内には、江戸時代に建立された「鐘楼」や「観音堂」が残る。
【 小金井宿本陣 】
本陣であった大越家の門が残る。 残念ながら説明版も何もない。
【 崩れかかった蔵造りの旧家 】
本陣の向かいには、蔵造りの旧家が2軒ある。
地震で被害を受け、そのまま放置されているようだ。 残念である・・・
石橋宿へ
小金井宿と石橋宿の間も、国道から外れた旧道を歩く区間である。 旧道に入る所に、目印となるようなものがないので、行きすぎないように注意して歩く。
【 薬師堂の几号 】
上町公民館の奥に、赤い薬師堂がある。
お堂の前の十九夜塔には、明治時代の水準点測量を示す几号が残る。
しかし そのうちに土に埋もれてしまいそうである。
【 旧道に入る 】
国道4号を左折し、旧道に入る。
更に住宅の植え込みと畑の間の農道のような道に入る。
【 新築された下野市役所 】
農道からパチンコ屋の駐車場を進むと、下野市役所にぶつかる。
街道の上に市役所を建てたようで、市役所裏の駐輪場を抜けることが出来る。
残念ながら市役所内には、まったく街道案内は無かった。
【 のどかな道を行く 】
下野市役所を過ぎると、しばらく畑の中の道を進む。
【 街道に背を向けた石仏群 】
国道4号に背を向けるようにして立つ石仏群。
国道4号が、旧道と少し外れて作られた結果だろう。
石橋宿へ
やがて石橋宿に到着である。 石橋宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が30軒あったという。 しかし現在の石橋宿の街道風景は、見事なまでに何もない宿場であった。
【 本陣跡 】
石橋宿の本陣であった「井澤茶舗」。
脇本陣であった「伊沢写真館」もあるが、どちらも面影はない。
【 グリムの里・石橋 】
JR石橋駅への道路街灯には、「グリムの里」の幟がかかる。
【 JR石橋駅 】
駅前には、「ブレーメンの音楽隊」を表した大きなグリム時計台が立つ。
小山宿から石橋宿へのルートは、旧道を縫うようにして歩く。 しかし案内板などは殆どなく、事前の下調べを充分に行う必要があると思われる。
またこの区間には街道の名残りは非常に少ない。 石橋宿などは、宿場だったことを忘れたのか、メルヘンの世界で街おこしをしているようである。 街道の上に建ったと思われる下野市役所も、旧街道の案内も何もない。 旧日光街道に対する行政の取り組みは、草加市や古河市を除いて、ほとんど何も行っていないようである