旅行日 : 2017年04月14日
前回古河宿から小山宿まで歩く予定だったが、途中で飽きてしまい間々田宿でリタイア。
古河と小山の間は、約11Kmの国道4号歩きである。 苦行僧ではないのだから、嫌になったら止めてしまう。 気楽な街道旅でなので、臨機応変に・・・ ということで、余った時間を、紬と見世蔵で知られている結城市の街並みを見に行ってしまった。
この日は間々田から小山までの残り区間の踏破である。 すでに半分は終わっているので、距離は短い。 更に気楽にのんびり歩くこととなった。 しかしGPSのデータを基に、実際に歩いた距離を測定すると、15.1Kmとなった。 これはおかしい! 万歩計から見ても、こんなに歩いてはいない。 原因不明・・・
日 付 | 区 間 | 宿間距離 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
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2017年4月14日 | 間々田宿から小山宿 | 7.4Km | 15.1Km | 15,025歩 | Map | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 9日目) |
84.3Km | 116.53Km | 152,479歩 |
宿間距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
(宿間距離の数値クリックで、ルートラボの計画ルートを表示)
実距離 : 寄り道などを含め、GPSログを基に基に実際に歩いたコース距離。
(ルート欄の「Map」→ GPSログから作図した実ルートを表示)
間々田宿
JR宇都宮線の間々田駅より街道歩きを再開。 間々田宿は、江戸・日本橋から11番目の宿場で、江戸と日光の中間点に位置している。 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒の宿場であった。
【 古風な洋品屋 】
間々田駅入口交差点そばの「いしや」
前回は定休日だったが、この日は店が開いていた。
【 車屋美術館 】
立派な民家と蔵を持つ。 常設展示品はなく、展覧会で使っているようだ。
立派な蔵である。 屋根を見ると、2つの蔵が合体したように見える。
【 逢いの榎 】
日光街道の中間地点に、旅人の目印として植えた榎の木があった場所である。
当初は “間の榎”だったが、次第に”逢の榎”となり、縁結びの木と云われた。
【 鏝絵(こて絵)の家 】
壁面に鏝絵(こて絵)と思われる飾りや、窓枠など洒落た家があった。
歯科医院として、現在も使われているようだ。
【 龍昌寺 】
「赤門」と呼ばれる山門と、「寝起不動尊」がある。
寝起不動尊は凄い形相しているそうだ。
残念ながら扉が閉ざされ、姿を拝むことはできなかった。
本堂横の十九夜塔には、明治時代の測量記号である「几号」が残る。
街道風景
間々田宿を過ぎたが、更に国道歩きが続く。 しかし前回と今回の2回に分けた為、非常に気楽に歩くことが出来た。
【 西堀酒蔵 】
「若盛」とか「門外不出」という銘柄を持つ。
大正時代の建物が残り、国の登録有形文化財に指定されている。
何種類か試飲させてもらい、「門外不出」をお土産に購入した。
【 安房神社 】
平安時代末期、平将門と戦った藤原秀郷が戦勝祈願したと云われている。
【 粟宮交差点 】
約11Kmにわたる国道4号歩きは、この粟宮交差点で終わる。
国道4号は左へ、旧日光街道は右の県道265号へと進む。
【 「神鳥谷」って何と読むのか? 】
立派な長屋門が現れる。 このあたりの地名は「神鳥谷」
何と読むのかと思ったら、「しととのや」だそうだ。 これは読めない・・・
【 材木屋さんの看板 】
古い商家の前に、面白い看板が立っていた。
材木屋さんの看板で、かなりの大木を使っているようだ。
小山宿
小山宿に近づいた。 昔は「小山ゆうえんち」のテレビCMが良く流れていたと思う。 何となく歌のメロディも覚えているが、いつの間にか、というより、だいぶ昔に閉園したようだ。
【 持宝寺 】
鐘楼を持つ立派な山門が建つ。
8代将軍吉宗が日光墓参時に休息したと云われる。
【 脇本陣・若松家 】
塀の向こうに、脇本陣であった若松家の玄関屋根が見える。
ここは高札場でもあったが、案内板などは何もない。
唐波風の玄関屋根は、大変凝った造りとなっている。
【 まちの駅「思季彩館」】
古い商家を使って、小山の農産物や産品の販売を行っている。
小山城(祇園城)址へ
小山駅近くで昼食後、街道から外れて小山城址公園に向かう。 小山城は”祇園城”とも呼ばれ、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の居城だったと伝えられている。
【 祇園城 】
天守閣や石垣などは無いが、空堀や土塁など良く残っている。
【 祇園橋 】
祇園橋が一の曲輪と二の曲輪を繋いでいる。
小山御殿
小山市役所前には、”小山御殿”と呼ばれる、徳川家日光社参の際の休憩・宿泊用の御殿跡が残る。
【小山御殿】
徳川家日光社参の際の休憩・宿泊所として設けられた。 しかし4代将軍家綱以降、8代将軍吉宗までの間、財政難により日光社参が一時途絶えた。 この間に大風により建物の一部が壊れ、天和2年(1682)に古河藩により解体された。
小山御殿跡説明版より抜粋
小山評定跡
市役所の駐車場には、小山評定跡の石碑が立つ。 関ヶ原の戦いに向け、大きく歴史が動いた場所である。
【小山評定】
慶長5年(1600)7月24日。 会津の上杉景勝討伐の為、小山に到着した家康は、石田三成が家康打倒の兵を挙げたことを知り、翌25日にこの地で軍議を開いた。 本田忠勝、本多正信、井伊直政ら家康家臣、福島正則、黒田長政、山内一豊などの豊臣恩顧の諸将が軍議に加わった。
家康は、このまま会津に向かうか、引き返して三成と戦うか、それとも三成に味方するかの意向を諸将に聞いたという。 大阪に妻子を残している武将も多かったが、福島正則が「人質を捨ててでも西進すべし」と進言。 上杉討伐を中止して、三成と戦うことが決まった。
家康は情報収集や上杉への牽制などで、軍議後もしばらく小山に留まり、8月4日に江戸に向けて出発。 その後9月15日に関ヶ原で勝利することになる。
須賀神社
本堂前に「七つ石」(夜泣き石)がある。 小山城内の庭石だったが、落城後に結城の城内に運ばれた。 しかし夜中に哀れげに泣くと云われ、結城城主が須賀神社境内に石を戻すと泣かなくなったと伝わる。
日光街道沿いには、須賀神社の長い参道の入口がある。
小山駅で帰途につく
さすがに新幹線が停車する駅だけあって、大きな駅である。
徳川家康は、7月に江戸から小山まで来て、石田三成の挙兵を知り江戸へ引き返し、更に9月には関ヶ原まで移動している。 当たり前の話であるが、車はもちろん新幹線も無い時代である。
JR間々田駅には”乙女河岸”の説明板があり、それによると、家康は8月4日に間々田の乙女河岸から、船で江戸に戻ったそうだ。 しかし下々の兵達は、徒歩での移動だったと思われる。 現代に暮らす我々は、いかに軟弱になってしまったかと、改めて思い知らされた。