徳川幕府により整備された五街道の一つである日光街道は、江戸から宇都宮を経て日光に至る街道である。 幕府の公道として「日光道中」とも呼ばれ、37里半(約147Km)の距離を21の宿場で結んでいた。
2016年12月5日、日光街道の始点である日本橋をスタートし、途中足を痛めて半年ほどの中断を含め、約1年4ヶ月をかけて日光まで歩き終えた。
東武やJRの鉄道路線が街道と並行して走るので、日帰りでの旅を繰り返し、鉄道から離れる宇都宮と今市の間だけ1泊した。 おかげで累計14日も要してしまった。
歩き始めは・・・
中山道も歩いている最中だが、冬の間は雪のため休止状態。 暇なので交通の便が良さそうな日光街道でも歩いてみよう・・・ という単純な動機から歩き始めた。 そして街道色の薄い首都圏だけでも抜けておこうとの目論見であった。
日光街道の印象と注意点
少なかった街道風景
日光街道全体の印象としては、「かつての街道や宿場の面影は薄く、また案内板なども含めてあまり整備されていない」というものであった。 宿場を思い起こせるような建物は少なく、本陣などの跡地を示す案内板も少ない。 国道4号の拡幅で、多くの街道風景が失われたのであろう。
また道の分岐点にはほとんど案内板はないので、事前に充分な下調べを行うことを勧める。
長かった国道歩き
首都圏を抜ければ、のどかな道をのんびりと歩けるかと思っていたが、一部区間を除いて国道を歩く距離は長い。 もっとも中山道でも日本橋から高崎までは同じようなもので、首都圏というより関東平野を抜けないと、風情ある街道風景は楽しめないようである。
埼玉県は川が多い?
街道とは異なるが、埼玉県を歩いて「川が多い!」という印象を持った。 「古利根川」とか「元荒川」だけでなく、農業用水路や、すでに暗渠となった水路などである。 古くは東京湾に注いでいた利根川を、現在の銚子に流れを変える大工事が江戸時代になされたが、単に治水目的だけではなく、新田の開発や物流の為の水路などのなごりかと思える。
江戸時代からのプレゼント
日光街道のハイライトは、何といっても杉並木である。 車で日光方面に行く時は「日光宇都宮道路」を走るので、杉並木を見ることはない。
今回ゆっくりと歩きながら眺めたが、「昔の人は素晴らしいものを後世に残してくれた!」と感嘆するばかりであった。 杉並木のすべてとは言わないが、せめて今市から日光までの間を歩いてみることをお勧めしたい。
日光街道ハイライト
日光街道を歩き終え、良し悪しを含めて印象に残った所をまとめてみた。 全体的には街道風景が豊かとはいえないが、やはり歴史ある道。 「えっ!」と思うような歴史のエピソードが街道沿いには残っていた。
山谷ドヤ街の簡易宿泊所群(日本橋~千住宿間)
山谷のドヤ街。 現在は「日本堤」とか「清川」という地名になっているが、初めて足を踏み入れた。 簡易宿泊所が並び、昼間からオッチャン達がたむろしていたが、想像していたより街は綺麗であった。
年金生活となった今、下流へ押し流され、将来お世話になるかもしれない・・・
小塚原刑場跡と千住回向院(日本橋~千住宿間)
江戸の三大刑場の一つであった「小塚原刑場跡」と千住回向院である。 ここには「桜田門外の変」で井伊直弼を襲った関 鐡之介以下18名の墓があり、テレビや小説で見る歴史的事件が、現実味を帯びて生々しく迫ってくる。
意外であった春日部の街(粕壁宿)
春日部から都心への通勤時間は40分前後らしく、ベッドタウンとして発展してきた。 したがって宿場の面影などないかと思っていたが、新しい街並みの中に古い建物が点在していたことは意外であった。
栗橋宿への細い道(幸手宿~栗橋宿)
幸手宿から権現堂堤を過ぎ、栗橋宿に向かう間の道が複雑であった。 国道を挟んで側道を右に左に。 静かな道で良いが案内板も無く、事前によく調べておく必要がある。
驚きの「静御前」の墓(栗橋宿)
栗橋の駅前に、源義経の寵愛を受けた「静御前」の墓があった。 奥州に逃れた義経を追う途中、義経の死を知り悲しみのあまりこの地で亡くなったそうだ。 実際の墓ではないが、思わず「エェ~! ほんまかいな?」と思ってしまった。
古河市の街並み(古河宿)
今回日光街道を歩いて、古河市が街道らしさ、宿場らしさを一番残していたと思える。 特に「よこまち柳通り」は、往時の街道色を色濃く残している。
長~い国道歩き(古河宿~野木宿~間々田宿)
古河宿を出ると、約11.3Kmほど続く国道4号歩きが待っていた。 一直線に伸びる単調な国道との闘いで、ただひたすら黙々と歩く。
私の場合は闘いに敗れて街道を離脱、結城市の街歩きに向かってしまった。
小山評定跡(小山宿)
徳川家康が米沢藩の上杉景勝を討ちに小山まで来た時、石田光成が挙兵したことを知り軍議を開き、関ヶ原の戦いへとつながった場所である。
ここを訪れた日は、京都の養源院に残された「血天井」を見学した後であった。 小山評定が開かれている頃、伏見城は石田方に攻められ、多くの血が流れて「血天井」が作られたことを思うと、特に印象は深かった。
古い「日光海道」という道標が残る(小山宿~石橋宿間)
交通路の「カイドウ」という漢字は、昔は「海道」という字が使われ、「日光海道」とか「甲州海道」と書かれていたそうである。
しかし、享保元年(1716)に「海も無いのに海道はおかしい」という新井白石の意見をもとに、「日光道中」「甲州道中」に改められたとのこと。
これは今まで全く知らなかったが、今回「左 日光海道・右 奥州海道」と刻まれた地蔵菩薩の台座を見ることができた。 面白雑学として印象に残った一つである。
日光杉並木
大沢宿を過ぎると、車も遮断された静かで巨大な杉並木の中を歩く。
並木が植えられて400年近くになるが、将来は樹齢1000年以上の屋久杉のような並木になるのだろうか? 遺産の継続を考えて保護が必要だが、保護目的のオーナー制度が1000万では、庶民には高すぎる・・・
終着・神橋から日光東照宮へ足を伸ばすと、杉並木とは反対に人混みと極彩色の世界である。 思っていた以上の人混みにうんざりし、妻と「来なけりゃよかった・・・」とこぼしつつ、日光街道の歩き旅を終了した。
さて! 次はどこを歩こうか? 中山道はこれからも歩き続けるが、それ以外に奥州街道へと足を伸ばそうか? それとも北アルプスを眺めながら、塩の道として知られる「千国街道」を歩こうか?
残された人生は短い・・・ 急がないといけないが、足の故障が治らない(泣)