旅行日 : 2017年05月08日
石橋宿から雀宮宿を経て宇都宮宿を目指す。 初夏に近い陽気なので、熱中症と日焼け対策を施して歩く。
汗を流しながら歩くと、冷たいものが飲みたくなる。 そして目指すは宇都宮なので、「餃子と冷たいビール!」の妄想が、頭の中を駆け巡る。 しかし宇都宮に到着後、更に頑張って宇都宮城や二荒山神社などを巡った。 そしてすっかり干上がった体を引きずって餃子屋に向かい、やっと冷えたビールにありつくことが出来た。
日 付 | 区 間 | 宿間距離 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
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2017年5月8日 | 石橋宿から 雀宮、宇都宮宿へ |
14.4Km | 21.68Km | 30,648歩 | Map | |
日本橋からの累計 (累計日数 : 11日目) |
113.8Km | 155.2Km | 207,949歩 |
宿間距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
(宿間距離の数値クリックで、ルートラボの計画ルートを表示)
実距離 : 寄り道などを含め、GPSログを基に基に実際に歩いたコース距離。
(ルート欄の「Map」→ GPSログから作図した実ルートを表示)
石橋宿から出発
JR宇都宮線の石橋駅で下車し、宇都宮を目指す。 この「石橋」という地名とか駅名は、日光街道を調べるまで知らなかった。 そして前回小山宿から石橋宿まで歩いた時、石橋駅前の立派なグリムの塔を見て、「なんでこんな所に・・・」と驚かされた。
【 石橋駅前のグリムの塔 】
石橋の街中には、「グリムの森」という公園もある。
千葉の船橋市には、「アンデルセン公園」というものもある。
【 石橋町は何故「グリム」なのか? 】
昔の宿場町を捨て去り、何故「グリム」なのか? と自宅に帰って調べてみた。
石橋にある「グリムの森」のHPによると、グリム生誕の地である、ドイツ・ヘッセン州にあるシュタインブリュッケン村と姉妹都市になっているそうである。 ドイツ語で、「シュタイン=石」「ブリュッケン=橋」を意味しているそうで、和訳すると「石橋」となるそうだ。
【 開雲寺 】
徳川将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となり、寺紋は葵である。
山門両脇や寺をめぐる塀には、丸や四角の銃眼や矢狭間を持っている。
【 路傍の石仏 】
街道沿いの塀の窪みに、数体の石仏が立つ。
かなり風化が進み、浮彫りされた仏様が崩れているものもある。
雀宮宿への街道風景
往年の宿場街を思い起こすような遺構は何もなかった石橋宿を後にして、雀宮宿へと歩を進める。 相変わらず国道4号を歩くが、とにかく「餃子 w/ ビール」を目指してひたすら歩く。
【 大きな家が増える 】
街道を進むと、左右に大きな敷地を持つ農家が増えてくる。
敷地内に大きく育った屋敷林が街道風景を飾っている。
【 大谷石の蔵 】
宇都宮が近づくにつれ、大谷石を使った蔵も増えてくる。
2階の窓の飾りや、大きく張り出した瓦屋根が見事である。
【 宇都宮市に入る 】
ついに宇都宮市に入ったが、この日のゴールはまだ先である。
【 面白い造りの蔵 】
1階は大谷石、その上に木造の家が乗っている。
木造部分はかなり古そうだが、大谷石部分は新しそうであった。
【 陸上自衛隊・宇都宮駐屯地 】
街道の左手には、広大な宇都宮駐屯地の敷地が広がる。
入口から立派な並木が続く。 歩いてみたいものだ。
雀宮宿
淡々と歩いて雀宮宿へ到着である。 駅入り口前後の国道4号は、電線地中化の工事が行われていたが、この宿場も殆ど見るべきものはなかった。
【 雀宮本陣跡 】
本陣跡を示す石柱が立つが、周りは何もない。
【 工事中だった脇本陣 】
雀宮駅前交差点の手前には、脇本陣だった芦谷家が残る。
電線地中化に伴い歩道が拡幅されたのか、立派な門や白壁は工事中であった。
宇都宮宿へ
本日の目的地である、宇都宮宿へ約8キロほどの最後の行程である。 宇都宮は栃木県の県庁所在地だけあって、市街地が大きく広がっているようである。
【 100キロポスト 】
日本橋からついに100キロ。中山道であれば新町宿の先である。
多くの人が触るせいか、”100″の文字が少しかすれていた。
【 何故か東京街道 】
国道4号であるが、何故か「東京街道」の標識が立つ。
利用している自転車用ナビのガーミンにも、「東京街道」と表示された。
【 JR日光線 】
単線の線路が日光街道と直角に交わる。
宇都宮宿
宇都宮宿へ入る。 江戸から17番目の宿場で、宇都宮城の城下町として、また日光街道と奥州街道の追分でもあったので、交通の要衝として賑わったそうだ。
【 宇都宮宿入口 不動堂 】
交差点名にその名が付いた不動堂。
ここを左に折れ、木戸をくぐると宇都宮宿に入った。
江戸時代初期まで奥州街道追分だったが、その後付け替えられた。
【 蔵造りのCafe 】
大谷石の蔵を改装したCafe。 夏でも中は涼しそうである。
【 東武宇都宮線 】
ここまで来ると、もうゴールは近い。
【 新町のケヤキ 】
街道から左に入ると、宿場の目印となっていた「新町のケヤキ」があった。
残念ながら切り倒されたようである。
【 新町のケヤキ 】
この木は、江戸から宇都宮城下への入口にあたるところに立っており、多くの旅人の目印になっていた。 樹齢は推定800年で根回りは20mほどもある。
戦前までは、このようなケヤキが3本あったが、一番大きなこの木を遺し、供木したため、現在はこの木だけが残っている。
栃木県・宇都宮市教育委員会説明版より抜粋
【 報恩寺 】
街道を進み、再び左に入ると、茅葺の山門を持つ「報恩寺」がある。
境内には戊辰戦争の「官軍戦死者石碑」などがある。
【 六道口 戊辰の墓 】
報恩寺からさらに先に進むと、六道口の「戊辰の墓」がある。
宇都宮城を巡った官軍と旧幕府軍の戦いで、旧幕府軍の戦死者の墓である。
官軍戦死者は報恩寺に葬られたが、旧幕軍は賊軍として公に弔われなかった。
【 武家屋敷町 】
報恩寺から六道にかけては、宇都宮城下西端に位置する武家屋敷町であった。
江戸時代、楡木・栃木へ通じる六道口を警備する役人屋敷が置かれていた。
【 奥州街道追分 】
直進すると奥州街道。 旧日光街道は左折して清住町通りにはいる。
問屋場や本陣・旅籠が並ぶ、伝馬町と呼ばれる一番賑やかな所であった。
【 本陣跡 】
2軒あった本陣のうち、伝馬町にあった本陣跡である。
奥州街道との追分に建ち、向かいのバスが入っていく道が旧日光街道である。
【 旧家が残る 】
追分を左折して旧日光街道に入ると、立派な蔵造りの旧家がある。
(株)上野で、江戸時代に油屋や油粕を肥料として売って繁盛した。
【 桂林寺 】
明治維新時の宇都宮城の戦いで、長州兵と大垣兵がこの寺に篭った。
その為会津兵の焼き討ちにあい、その後再建された。
宇都宮市内観光
せっかく宇都宮に来たので、この日の街道歩きを止めて、関東七名城の一つといわれる宇都宮城を訪れることにした。
【 宇都宮城 】
明治始めの戊辰戦争の際に焼失したそうだ。
清明台、富士見櫓や土塀が復元されているが、一度見れば十分な城であった。
【 宇都宮二荒山神社 】
日光の二荒山神社の分社かと思ったが、まったく別だそうだ。
戊辰戦争で焼失し、現在の神殿は明治10年(1877)に再建されたもの。
【 やっとビールにありついた 】
二荒山神社向かいの「メガドンキ」B1にある「来らっせ」に入る。
この店は、いろいろなお店の餃子を一度に楽しむことが出来る。
それにしても、ビールの美味いこと美味いこと! 五臓六腑に染み渡った!
2016年12月5日、日本橋から日光街道への第一歩を踏み出した。 冬の間に、春日部か幸手あたりまでの、退屈な首都圏を終わらせることを目論んだ。 しかし時間もあったせいか、宇都宮まで来ることができた。 終着の日光まで、残すところ30Km程度で、2日あれば終わる距離である。
普通であればこのまま継続し、何とか日光街道制覇を目指すであろう。 しかし私はここで中断し、秋から再開することにした。 これからの季節、宇都宮や熊谷など内陸部は異常に暑いからである。 それに、中断していた中山道歩き旅も再開しなければいけない。
という訳で、これからしばらくは中山道を歩くことにする。