東京メトロ東西線の九段下から、靖国神社に向けて九段坂を上がる。 右手に靖国神社、正面に灯台のようなものが見えると田安門である。 しかし多くの人は、「田安門」という名を知っているのだろうか? 単に「武道館に向かう入口の門」と言う方が通じる気がする。 もちろん私もかなり長い間、その程度の知識しか持ち合わせていなかった。
牛ヶ淵と千鳥ヶ淵
九段坂を上がると、左に清水門から続く「牛ヶ淵」が見える。 堀は深く、土木工事の重機も無い時代、人力だけで良く作ったものだと感心する景観である。
話は変わるが、東京に市電が開通した当初(明治40年)、九段坂の急勾配を路面電車は登れなかったそうだ。 関東大震災後に坂の頂上部を掘り下げ、現在のようななだらかな坂にしたとのことである。
牛ヶ淵
田安門への土橋からの牛ヶ淵。 正面左の建物は昭和館、右に九段会館が見える。
【九段会館】
2011年の東日本大震災で、天井崩落により2名が死亡。 この日を境に休業から廃業となり、1934年(昭和9年)からの歴史に幕を閉じた。開業当初は「軍人会館」と呼ばれ、清王朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の弟である溥傑と嵯峨浩の結婚式が行われたり、2.26 事件の戒厳司令部が置かれるなどした。 戦後は進駐軍により接収され、士官宿舎として使われたが、昭和27 年に占領が解けて返還されると、九段会館と名前を変えた。
千鳥ヶ淵
桜で有名な千鳥ヶ淵。 こちらも結構深いところに水面がある。
田安門
田安門は江戸時代初期の1636年(寛永13年)に建てられ、江戸城の総構えの完成当時から残る唯一の遺構である。 門の内側は北の丸で、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所であり、「千姫(天樹院)」や「春日の局」などが住んでいた。
高麗門
田安門に通じる土橋は、春になると見事な桜で彩られる。 毎年春には、武道館で多くの大学の入学式が行われるが、この桜と高麗門が新入生を迎えている。
田安門枡形
高麗門を振り返る
枡形内の石垣。
枡形から渡櫓を見る
櫓 門
享保15年(1730)に八代将軍吉宗の次男・宗武が御三卿の一つである田安家を興し、この田安門を入った所に屋敷を構えた。 現在の田安門渡櫓は、昭和38年に解体修理が行われたそうである。
【徳川御三家と御三卿】
竹橋門から田安門にかけ、一ツ橋家、清水家、田安家と、徳川御三卿と呼ばれる大名家が続く。 徳川御三家は良く聞くが、御三卿とは何かを改めて調べてみた。<徳川御三家>
徳川家康の息子3人が興した尾張、紀州、水戸の徳川家が御三家である。 将軍家に後嗣が途絶えた時、この御三家から養子として次の将軍を出すことや、葵の家紋の使用、江戸城内で帯刀が許されるなどの特権があった。
<徳川御三卿>
第8代将軍吉宗と第9代将軍の家重が、息子たちを分家させた、一ツ橋家、清水家、田安家の大名家である。 正式には徳川姓を名乗り、将軍家の親戚であることを示していた。 御三家だけでは将軍の跡継ぎが途絶える可能性もあるので、その場合の将軍後継者を出す役割を担った。
日本武道館
田安門を過ぎると、1964年の東京オリンピック時に建てられた日本武道館がある。
清水門のページにある切絵図で分かるように、田安家と清水家は、それぞれ敷地が広かったので、軒を接するほどではないにしてもお隣さん同士であった。 この両家に跨る敷地跡を利用して建てられたのが日本武道館である。
清水門はあまり目立たない場所に建つせいか、ひっそりとした静かな佇まいを見せている。 それに比較して、隣の田安門は多くの人が行き交う門である。
外堀沿いは殆ど門の跡だけだったが、清水門、田安門と本格的な門に続けて出会うことができた。 そしてその大きさや重量感、日本の城の美しさなどを改めて実感した。