桜田門から皇居前広場を通って、日比谷門に向かう。 江戸城には内濠、外濠の沿って、36の見附があったそうだが、この日比谷門は、唯一橋のない枡形門であった。 現在は日比谷公園の中に石垣のみが残る。
皇居前広場(皇居外苑)
桜田門の渡櫓をくぐり、皇居前広場へ出てきた。 正式には「皇居外苑」である。 現在は広い公園であるが、江戸時代は諸大名の屋敷が立ち並んでいた。
皇居前広場
広々とした広場の向こうに、丸の内のビル群が聳え立つ。
後ろを振り返ると、通ってきた桜田門の渡櫓が正面に見える。
広大な芝生広場には、クロマツが植えられている。 約2000本あるそうだ。
日比谷公園へ
皇居前広場から、祝田橋交差点を渡って日比谷公園に入る。 江戸時代には、この祝田橋は無かった。
Wikipediaによると、明治39年(1906)に日露戦争の戦勝を祝し、皇居外苑を縦断する凱旋道路の建設が決まり、日比谷濠を分断する形で祝田橋が作られた。 そして分断された日比谷濠の西側は、凱旋濠と呼ばれるようになったとのこと。
開園当時の水飲みが残る
園内に入ると、日比谷公園の開園当時(明治36年)の水飲みが残っていた。 説明によると、馬も水が飲めるようになっていたそうだ。 荷役を牛馬に頼っていた時代とはいえ、公園内に牛馬が出入りしていたとは、現在の公園からは想像つかない。
日比谷門跡
日比谷公園の有楽町駅側の入口から入った所に、日比谷門の櫓台のみ残っている。
桜田門や田安門に比べると、櫓台は小さい。 渡櫓も小さかったのだろうか?
濠の石垣と心字池
櫓台跡からは石垣が続いている。 この石垣の上にはベンチが置かれ、上がることができる。
石垣手前の池は心字池。 江戸時代は、外堀の山下門に繋がる濠であった。
櫓台と反対側の石垣を見る。
山下門に向け、ここで直角に曲がっていたが、この先の石垣は撤去されている。
江戸切絵図で見る
心字池前の石垣は、下の切絵図で赤丸で囲った部分だと思われる。
往時の日比谷門の写真を見ると、立派な櫓門を持っていた。 しかし日比谷公園に残る櫓門の石垣は小さい。 調べると、櫓門が晴海通りと重なった位置にあったため、取り壊して現在の位置に移築したと書いた記事があった。 移築時に縮小されたのかもしれない。