大手中之門をくぐると、江戸城本丸はもう近い。 しかし本丸の手前には、最後の門である「中雀門」が待ち構えている。 大手三の門、中之門を駕籠に乗ったまま通過を許された徳川御三家も、この門で駕籠を下り、徒歩で本丸へ入らねばならなかった。
この中雀門は、本丸・表御殿の正門にあたるため、「御書院門」とか「玄関前門」とも呼ばれていた。 高麗門と渡櫓門の2つの門で枡形を構成し、更に「書院出櫓」と「書院二重櫓」という2つの櫓で守りを固め、本丸への最後の砦を築いていたようである。
中雀門枡形
大手中之門を抜けると、道は左に曲がり、緩い坂を本丸の位置する台地へと上がっていく。 すぐに右に曲がり、立派な石垣に囲まれた道を進むが、この石垣のあたりに、道を塞ぐように高麗門があった。 写真は高麗門手前から枡形内を望む形で撮ったものである。
左の石垣の上には「書院出櫓」が聳え、高麗門に睨みをきかせ、更に左奥には、枡形内に侵入してきた敵を倒すため「書院二重櫓」があったようだ。
高麗門があった場所を進み、枡形内に入る。 枡形を右に折れると渡櫓門であるが、現在は袖石垣だけが残る。
2度の火災で無残な姿に・・・
左右の袖石垣は、一目見るだけで、他の門の石垣と異なることが判る。 黒ずんで角は丸くなり、表面にもひび割れが目立つ。 大火に焼かれた痕である。 石垣の前には、丸く穴の開いた礎石が残り、かつて渡櫓門があったことを示してる。
【左側石垣】
【右側石垣】
この渡櫓の石垣は、明暦3年(1657)の明暦大火で焼け落ちた、天守閣の石垣を再利用したものらしい。 更に文久3年(1863)にも大火で中雀門は焼失している。 ということは、この石垣は2度も大火で焼かれたことになる。 無残な傷が残るのも無理はない。
書院二重櫓の土台が見える
中雀門を抜け、本丸側から振り返り、渡櫓門の外から枡形を眺めてみる。 左右に渡櫓の袖石垣があり、正面の枡形内の石垣右上に、木に隠れるように「書院二重櫓」の土台と思われる石垣が見える。
下の写真は冬に撮ったもので、木の葉が落ち、「書院二重櫓」の跡が良く判る。
江戸城に登城する大名達は、こうして大手門から大手三の門、中之門、中雀門と、厳重な警戒をくぐって、やっと本丸に辿りつくのである。
屋敷から大勢のお共を連れ従えて出発した大名も、大手門からの門を通るたびに人数を減らされ、中雀門を抜けて本丸御殿の玄関より先は、ついに大名一人になってしまうのである。 次回は大名になった気分で、江戸城本丸巡りのレポートである。