京都を出発して25日目の文久元年(1861)11月15日、皇女和宮降嫁の大行列は、無事に江戸の清水御殿に到着した。 こうして中山道沿道の村々を巻き込んだ、和宮狂騒曲は幕を閉じた。
普通のドラマであれば、ここで大団円を迎え、すべてがめでたく終わる。 しかし皇女和宮の場合、更に面白い話がてんこ盛りで続き、いよいよ最終章へと進むのである。
結婚の条件を突きつけた
徳川家への降嫁を決断した和宮は、徳川家に対して条件を突きつけていた。
泣く泣く嫁入りを決めたのだから、条件を出すぐらいは普通かもしれない。 しかし、いまだ封建社会の中にあった時代では、どうなのだろう?
実家の流儀でやらせてもらいます!
条件の一つが「大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること」である。 要するに「旦那の家の流儀には従いません! 実家の流儀でやらせてもらいます・・・」と言っているのである。
二人だけの新婚生活で、旦那を尻に敷くのは勝手だが、住まいは大奥である。 徳川家にも幕府開闢以来250年の伝統があるはずで、現代の政治家の言葉を借りると、「いかがなものか」と言われてもやむを得ないだろう。
身の回りの世話人は御所から連れて行く
「御所の女官をお側付きとすること」がもう一つの条件である。
御所風の暮らしを守りたいという希望があるので、勝手知ったる女官を連れて行きたいと思うのは自然であろう。
法事の度に実家に帰らせていただきます!
「父・仁孝天皇の17回忌の後に関東に下向し、以後 回忌ごとに上洛させること」も条件の一つである。
父親の17回忌が終わったら嫁入りし、それ以降は、回忌法要ごとに帰省させてもらうということである。 実際には17回忌を待たずに江戸に向かい、翌年に行われた17回忌法要への参加は実現しなかった。 もっとも結婚後も、再度大行列で江戸と京都を往復したのでは、幕府の金庫は底をついてしまうことだろう。
他の2つの条件とは、「御用の際には伯父・橋本実麗を下向させること」「御用の際には上臈か御年寄を上洛させること」とある。 困ったことがあったら伯父さんを京都から呼び寄せ、逆に女官を京都に向かわせるという要求だったようだ。
嫁 vs 姑 義理の母は有名人だった
1862年2月11日、徳川14代将軍家茂と和宮の婚礼がとり行われた。 二人はともに17歳、花のセブンティーンである。
そして大奥で待ち構えていたのは義理の母、つまり姑である。 この姑が、NHKの大河ドラマで宮崎あおいが演じ、一気に有名になった「天璋院篤姫」である。
皇室出身者 vs 武家出身者
和宮は宮廷育ち。 一方、義理の母の天璋院篤姫は薩摩藩島津家の出身で、和宮より10歳年上だった。 この嫁と姑は、当初は仲が悪かったという。
しかし狭い家で暮らす、我々庶民と異なり、毎日二人が顔を合わせることはなかった。 むしろ和宮についてきたプライドの高そうな女中衆と、天璋院側の女中衆の間での不和が原因で、お互い相手の悪口や陰口を吹き込まれていたようだ。 まるでテレビドラマの世界である。
幕府崩壊後、和宮と天璋院の二人は協力し、徳川家の存続と徳川慶喜の助命に尽力している。
姑を呼び捨てにした
和宮が嫁入りする際、数々の土産物を持参した。 当然天璋院へのお土産もあったが、その目録の宛名が「天璋院へ」となっていた。
朝廷の中では、天皇の妹として育ったので、周りの者を呼び捨てにしていたものと思える。 しかしいくら身分が高くても、義理の母親を呼び捨てすることが許されるとは思えない。
初対面での座布団事件
和宮は降嫁する前に「内親王」という位を得た。 これは将軍家茂より高い身分だそうだ。 こんな和宮が、姑である天璋院と初めて対面した時にその事件は起こった。
天璋院は上座で座布団が敷かれ、和宮は下座、しかも座布団も無かったそうである。 いくら嫁姑の関係でも、座布団なしは、嫁である和宮に対する礼に欠ける気がする。
家茂との新婚生活と突然の別れ
いやいや嫁いできた徳川家だが、意外と夫婦仲は円満だったようである。 和宮にとって、結婚相手の家茂は「当たりクジ」を引いたのかもしれない。 しかし時代の流れは、この若い二人を巻き込んで、風雲急な時代へと突入していった。
僅か4年の夫婦生活だった
結婚の翌年3月と、その翌年正月の二度にわたり家茂は入洛。 更に慶応元年(1865)、長州征伐のため大坂へ赴いた。 しかし、家茂はそのまま江戸に戻れず、翌年7月に脚気のため病床についてしまった。
心配した和宮は、夜具や衣類、見舞の菓子を届けさせたり、イギリス船で医者を送ったが、その甲斐もなく慶応2年(1866) 7月20日、家茂は21年の短い生涯を大坂城で終えたのである。
家茂と和宮の結婚して僅か4年。 その間家茂は3回も上洛しているので、実質的には2年ほどの夫婦生活であった。
お土産を忘れなかった家茂は偉い!
家茂が大坂へ出発する前、「お土産は何が欲しい」と和宮に聞くと、「京都の西陣織をちょうだい・・・」とおねだりしたようだ。
この西陣織は、和宮の手に届けられたが、残念ながら家茂から直接手渡されることはなく、お土産というより、最後の形見の品となってしまった。 それにしても、約束を忘れずにいた家茂は立派である。 私ならすぐに忘れてしまう・・・
家茂の供養のため、和宮はこの西陣織で袈裟を作った。 この袈裟は、現在も芝の増上寺に収められているそうだ。
徳川追討軍が江戸へ攻め上る
和宮が徳川家に嫁いだ目的である「公武合体」は叶わず、家茂の死後も倒幕の動きは激しくなる。 そして慶応3(1867)年10月14日、家茂の後を継いだ徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷へ返還。 長きにわたる徳川幕府の幕は閉じたのである。
徳川追討軍の総司令官は・・・
慶応4年(1868)に鳥羽伏見の戦いが勃発、薩長中心の反幕府軍は、錦の御旗を掲げて官軍となり、朝敵となった幕府の軍勢を打ち破った。
そして徳川家を取り潰そうと、官軍は江戸へ向け進軍を開始する。 この徳川追討軍の総司令官は、何と和宮のかつての婚約者であった「有栖川熾仁親王」であった。
俺の女を返せ!
有栖川熾仁(たるひと)親王が17歳、和宮が6歳の時、二人は婚約した。 しかし幕府からの横槍で破談となり、和宮は徳川家に奪われてしまったのである。 この時の恨みがあったのか、運命のいたずらか?
徳川追討の総司令官として、「俺の女を奪った憎っき徳川! 俺の女を返せ~ぇ!!」と思ったか、怒涛の勢いで江戸に攻め上がってきたのである。
嫁姑で力を合わせて討幕軍を止める
徳川家を救うため、和宮と姑の天璋院篤姫が動いた。 朝廷や追討軍の有栖川熾仁親王に対し、徳川家存続と慶喜の助命を、和宮は嘆願している。 一方天璋院も、敵方の総大将である西郷隆盛に手紙を書いている。
こうした働きかけもあり、官軍の西郷隆盛と、幕府の勝海舟による和平会談が行われ、そこで江戸城総攻撃の中止が決定された。
このように、和宮の結婚当初、不仲だったと言われていた二人は、お互いに力を合わせて、徳川を救ったのである。
イケメン男の写真は誰なのか?
家茂と同じ病気で死去
江戸を戦火から守った和宮は、その後京都に戻ることなく、徳川の女として日々を過ごした。 そして家茂の逝去から11年後の明治11年、家茂と同じ脚気を患い、箱根・塔ノ沢で療養中に死去。 享年32歳。
二人並んで葬られる
和宮の遺言は「家茂の側に葬ってほしい」というものであった。 この遺言通り、芝・増上寺で眠る徳川14代将軍家茂の隣に葬られた。 それまでは将軍の墓所と、正室を含む将軍の女性の墓所が、同じ場所に並ぶことはなかったそうである。
もちろん和宮の遺言もあったが、明治天皇の叔母さんということで、敬意が払われたのかもしれない。
そして時は流れ1958年
時は流れ1958年、芝・増上寺の徳川家墓所の大掛かりな改葬が行われ、和宮を含めた歴代将軍家に連なる人々の遺骨調査が行われた。
この時和宮は、1枚の写真を抱くように埋葬されていた。 そしてその写真には、烏帽子と直垂(ひたたれ)姿の若い男が写っていたのである。
写真の男は誰だ・・・
和宮が抱いていた1枚の写真。 写っていた男は誰なのか? 残念ながら、写真の取り扱いを間違ったのか、翌日には消えてしまったそうだ。 したがって、男の正体は現在も謎である。
普通に考えれば、夫の家茂であろう。 もし写っていた男が「有栖川宮熾仁親王」だったら面白い。 「秘められた愛を持ち続けた」と評されるか、「昔もあった仮面夫婦」と評されるか? 何れにしても、ドラマのネタとしては事欠かないであろう。
こうして和宮のドラマは、死後も続いていたのである。 若くして政争に巻き込まれ夭折した二人は、あの世でやっと静かに暮らすことができたのであろう。
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