「江戸の売春」(永井義男著)という本を図書館で借りてきた。 公立図書館に置いてあるまじめな本だが、貸出受付の女性に出すには少々気が引けるタイトルである。 しかし最近は自動貸出機があるので、気恥ずかしい思いをせずに借りることができる。
江戸の売春といえば吉原の遊郭を思い起こす。 華やかな花魁道中を行った遊女は、要するに高級娼婦。 しかし江戸の街では、より庶民的な娼婦たちが、様々な場所でサービスを提供していたようである。
公娼と私娼
娼婦とか女郎と呼ばれる売春婦には、公娼と私娼の区別があった。 江戸時代に公娼・私娼という呼称はなかったそうだが、お上公認の娼婦と、もぐりの娼婦ということである。
公 娼
江戸の公娼は吉原の遊女である。 吉原は幕府から江戸で公認された唯一の遊郭で、最高位の花魁の揚代は1両1分。 現在の金額で12万5千円ほどだそうだ。 しかし酒や料理、ご祝儀などが必要で、揚代の数倍という、べらぼうな金がかかったようだ。
もう一つの公娼といわれるのが、宿場の旅籠で宿泊客へ給仕をする飯盛女である。 今でいう仲居さんだが、裏の仕事として夜伽で旅人の無聊を慰めた。 幕府は旅籠一軒につき2人の飯盛女を置くことを許したので公娼といえるだろう。 江戸四宿といわれた千住・板橋・品川・内藤新宿では、規定以上の飯盛女を置く旅籠が多く、宿場というより遊郭の様相を呈していたという。
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私 娼
「岡場所」と呼ばれる非合法の売春街が、 江戸に40~50ヵ所もあったそうだ。 売春防止法以前の言葉で考えると、幕府公認の吉原が赤線地帯で、岡場所は青線地帯ということなのだろう。 安永3年(1774)には、岡場所を 9段階に分けて評価したランキングがあったそうだ。
この岡場所には、個人事業主として営業する娼婦たちがいた。 商売の形態により夜鷹・地獄・舟饅頭・比丘尼などと呼ばれていたようだ。 次の章で、これら私娼に関して掘り下げてみたいと思う。
夜鷹 柳の下に立つ姿が・・・
「夜鷹」といえば、手拭いをかぶって柳の下にたたずむ姿を思い浮かべる。 これは葛飾北斎が描いた「夜鷹図」から作られたイメージなのだろうか? 「夜目遠目笠の内」という言葉があるが、妖艶でしっとりとした色気がにじみ出ているような姿である。
葛飾北斎「夜鷹図」
では「夜鷹」の実態は?? 物陰で地面にゴザを敷いて商売をする最下級の街娼で、揚代は蕎麦一杯の値段と同じとも、24文ともいわれていた。 年齢は40~50,60歳が多かったが、中には16歳などの10代もいて人気になったそうだ。
もちろん一人での夜の商売は危険が伴うので、「牛(ぎゅう)」と呼ばれる用心棒、多くは亭主が付き添い、女房の売春を見守っていた。 まぁ「ひも」ということになるのか?
見物人や夜店も現れた
天保の改革で、江戸の街から夜鷹が姿を消した時期があった。 その後ようやく復活すると大人気となり、揚代は50文に値上がったが客が押し寄せ、その様子を見物する大勢の男たちまで現れた。 この見物人を目当てに蕎麦、茶飯、燗酒などを売る夜店も現れ、お祭り騒ぎになったそうだ。
深川の岡場所では、掘立小屋で7人の女が「すわり夜鷹」と称して営業を始め、これも周りに屋台が出るほどの評判をよんだそうである。
しかし夜鷹と男がゴザの上でコトをなしているのを、周りで多くの男が見物し、さらにその周りに屋台まで出たとはすごい世界である。
一晩で360人! 伝説の夜鷹「一とせおしゅん」
一晩で一年(ひととせ)分稼いだといわれる夜鷹「おしゅん」。 「一とせ(ひととせ)おしゅん」と呼ばれる伝説的夜鷹である。
月岡芳年「月百姿 夜鷹 一とせ」
柳原の土手で商売を行い、ある年の大晦日の夜に360人を相手にしたという、まさにギネス級の夜鷹である。 無粋であるが、 一人5分で計算したら30時間。 12時間で終わらすには、飲まず食わずの一人2分で処理しなければいけない。 これには絶句・・・ 順番を待つ男たちが、ずらりと並んだのだろうか?
地獄 素人や御家人の人妻が・・・
「地獄」とはすごい名称である。 素人の女性は「地女」と呼ばれ、極内々に・・・ ということで「地極」が「地獄」と云われたようである。(諸説あり)
いずれにしても堅気の稼業を営む男の妻や娘たちの、秘やかな売春である。 夜鷹のように男を誘うことはせず、仲介者の紹介で、料理屋の一室 または自宅などでサービスをしたそうだ。
当時は出会茶屋という所もあり、客は一人でやってきて、茶屋が客の好みに応じて女を呼び寄せる仕組みを作り繁盛したという。 素人娘、人妻、後家 さらに侍の妻などが茶屋に登録していたようで、現代のデリヘルのようなものである。
庶民の男にとって、武士の妻や後家を抱けるとは夢心地であろう。 しかし素人娘や人妻が、好色でこのような世界に足を踏み入れた訳ではないだろう。 「武士は食わねど高楊枝」と云われるが、武士の妻は食うために涙流して・・・ だったのだろう。
舟饅頭 ゆらりゆらりと舟の上・・・
川べりに小さな舟を浮かべ、土手を行く男に声を掛けて舟に誘った娼婦が舟饅頭である。 舟が水辺を一周する間に済ませることが決まりで、その時間は船頭の胸先三寸で決まったようだが、揚代は32文であった。
月を眺めながら川風に吹かれ、ゆらゆらと揺れる舟で愛を語り、そして結ばれる・・・ 恋人同士であればロマンチックの極みだろうが、愛も情けもない娼婦の世界。 機械的に処理されて、「ハイ! おわり・・・」だったのだろう。
比丘尼 尼の姿で男を誘う・・・
比丘尼とは、尼さんの姿で春を売った娼婦である。 宗教とは関係なく、尼さんの姿で商売するとは不謹慎と思えるが、現在のコスプレと同じと考えれば納得である。
この比丘尼は美人が多かったそうだ。 尼僧の姿はきらびやかさと無縁で、清楚で慎ましやかに、そして品のある立ち居振る舞いから、かすかに匂いたつ色香・・・ したがって厚化粧は似合わず、美人しか尼僧姿が似合わないのだろう。
厳しい戒律の中に生きる尼僧を犯す・・・ 男の身勝手な妄想が、欲情を刺激したこと間違いないだろう。 昔の日活ロマンポルノにも尼寺シリーズのようなものがあったので、昔も今も変わらないようだ。
女郎買いには寛大な社会だった
女郎を買うこともせずに素人女にばかり手を出す男を、当時の女たちは「意地汚い」「性悪」「男らしくない」と罵倒したそうだ。 また夫が女郎買いをすることは、素人の女と深い仲になるよりはましだと考えていたそうで、「男の女郎買いは、ある程度仕方ない」というのが当時の社会通念だったという。
鏑木清方 「遊女」
吉原の遊女や岡場所で商売を営む夜鷹たちは、いずれも貧しい家の出や、遊女上がりなどの生活困窮者が、最後の手段としてやむを得ずの職業選択だったのであろう。
【参考:「江戸の売春」 永井義男著 河出書房新書】