世界一の花嫁行列(4) 江戸時代のプロジェクトマネジメント


文久元年(1861)10月20日、 徳川14代将軍の家茂に嫁ぐ皇女和宮「降嫁」の輿が、江戸に向かって京を出発した。 治安の問題などで中山道を利用し、京から江戸までの530Kmの道中を、各地の宿場に泊まりながら、何と24泊25日という長旅であった。

絵巻物のような行列は、約12里(50Km)もの長さになり、通過するまで4日間を要したという。

実際の花嫁行列はどのようなものだったのか? その実態に迫ってみよう。


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15歳の旅立ち

文久元年(1861) 10月20日 、一人の女性が江戸に向けて京を旅立った。 女性といっても満15歳。 現在の中学3年生に相当する女の子である。

出発した10月20日は旧暦で、現在の新暦でいうと11月22日である。 最近の暖冬と異なり、寒さ厳しい初冬の旅立ちで、さぞかし心細かったことだろう。

しかし決して一人旅ではなかった。 随行の公家や護衛の武士、荷物を運ぶ人足などが前後を固め、何と2万人ともいわれる大行列を作っての旅路であった。

4つのグループに分れて進んだ花嫁行列

長さ50Kmにもおよぶ2万人もの大行列とは、いったいどのように進んだのだろうか? 話が大袈裟に伝わっているのではと思ったが、中山道・中津川宿にある「中山道歴史資料館」で、和宮の行列の詳細を示した資料を貰った。 この資料によると、和宮の大行列は第1陣から第4陣までの4つのグループに分れて進んだようである。

皇女和宮

和宮が進む行列本体は、第3陣であった。 この行列本体が中津川宿に到着した時、先頭を進む第1陣は上松宿まで進んでおり、第2陣は三留野宿まで進んでいた。 そして最後尾を進む第4陣が大湫宿であった。

先頭の上松宿から和宮の本体が宿泊した中津川宿までが53Km。 中津川宿から最後尾の大湫宿までが24Kmあり、合計で70Kmにも及んでいた。 では行列の各グループの詳細を見てみよう。

上松宿 行列の第1陣

● 御縁組御用係

・菊亭中納言、三条中納言

● 供奉諸公卿

・今城左中将、千種左少弁

● 御奉行職事後騎

・葉室右大弁

総勢394人余


継立て 人足: 3,530人 馬: 120頭

▼ 須原宿

▼ 野尻宿

三留野宿 行列の第2陣

● 御縁組御用係

・中山大納言

● 武家伝奏御用

・広橋一位、野宮宰相

● 供奉諸公卿

・小倉侍従、幸徳弁、広橋卿

総勢365人余


継立て 人足: 3,050人 馬: 124頭

▼ 妻籠宿

▼ 馬籠宿

▼ 落合宿

中津川宿 行列の第3陣(本行列)

● 和宮親子内親王

・庭田宰相典侍ノ局

・能登ノ局 ・橋本宰相中将

・橋本大夫侍従

・勧行院(宮の生母)

● 随行の公家等 123人

● 護衛の武家等 233人

総勢4,000人余


継立て 人足: 13,814人 馬: 405頭

▼ 大井宿

大湫宿 行列の第4陣

● 武家伝奏御用

・坊城中納言

● 供奏諸公卿

・岩倉侍従、 富小路中務大輔

・北小路左近将監

総勢282人余


継立て 人足: 2,563人 馬: 71頭

和宮の行列が中津川宿に到着したのは、旧暦の10月29日の午後4時頃だったという。 その日の夜中に雨がひどくなり、翌朝の出発から昼頃まで降り続いたという。 雨の中を出発した大集団は、足元の悪い十曲峠や馬籠峠で、さぞかし難儀したことだろう。

人足は手弁当で野宿?

この大行列を迎え入れる宿場では、本陣、脇本陣、旅篭などの宿泊施設だけでは受けきれなかっただろう。 場合によっては普通の民家なども徴発されていたのかもしれない。 宿を割振りする役目を持った役人がいたと思うが、気苦労は計り知れない。

では近隣の村から駆り出された人足たちはどうしたのだろうか? 宿が提供されたとは思えない。 おそらく物置や馬屋など、雨露をしのげる場所を自分で見つけて野宿したのだろう。

食事はどうだったのか? 炊き出しで握り飯でも作ったのか? しかし1日2食と考えても、人足分まで作るとなると、とんでもない数を握らなければいけない。 寝る場所だけではなく、食事も自分で調達したのかもしれない。

おにぎり

和宮は本当に悲劇のヒロインだったのか?

和宮を描く小説や映画・ドラマなどは、「時代の犠牲者」として和宮の悲哀を描くものが多い。 そのためか、「和宮=悲劇のヒロイン」という思い込みがあるが、別の側面で考えてみよう。

人足たちの苦労を知っていたのか?

近隣の集落から人足として人々がかき集められ、自分のために2万人近くが動員されていることを知っていたのだろうか? 和宮の周辺には侍従や公家たちが取り囲み、人足を目にすることは無かっただろうが、仮に人足たちが苦労していることを知っても、それが当たり前と思う、鼻持ちならない天上人だったのかもしれない。

視野が広がったのではないか?

和宮は徳川家への降嫁がなければ、6歳の時に婚約した有栖川宮熾仁親王と、慣れ親しんだ京の都で、雅びで穏やかな暮らしを全うしたことだろう。 しかし御所を中心とした狭い世界で、一生を過ごしたかもしれない。

それに対し、中山道を進む旅の中で、美しい風景だけでなく、庶民が暮らす村々や生活などを目にすることで、見聞を広めることができたことだろう。

江戸が好きになった?

明治維新による江戸城開城を機に、和宮は京に里帰りした。 この時付き従ったのは、僅か十数人だったそうで、輿入れ時に比べてひっそりとした里帰りである。

念願の京に戻った和宮は、5年ほど京で暮らした。 しかし「東京遷都」を機に、再び東京(旧江戸)に戻ってきている。 そして天璋院篤姫を訪れ、一緒に観劇や食事をするなどの生活を楽しんだようだ。 

和宮は時代の変化に柔軟に対応できた

江戸という見知らぬ土地に嫁ぐ不安に満ちて、中山道を下った和宮。 しかし夫である徳川家茂との出会いから、和宮自身も大きく変化したようである。

江戸城が攻められるとき、和宮の立場であれば徳川家から離れて江戸城を脱出、京に戻ることができたはずである。 しかし和宮は天璋院篤姫と共に、「江戸城無血開城」と「徳川家存続」のために働いたのである。 政略結婚の犠牲となった薄幸の皇女が、嫁ぎ先のために尽力する姿は、後世に強い印象を残している。

このようなことを考えると、和宮は時代の変化や自分が置かれた立場・役割を理解し、柔軟に対応できる賢くて強い女性だったようだ。

江戸末期にもプロジェクトマネージャーがいた

行列の話から大きくそれてしまったが、最後に行列の話に戻してみよう。

4つのグループに分かれた大行列だが、各グループには責任者がいたと思うが、全体を計画して取り仕切る責任者というか、プロデューサーのような人物がいたものと思う。

現代でいえば、小惑星「リュウグウ」の土砂サンプルを持ち帰った探査機「はやぶさ2」の、プロジェクトマネージャーのような役割をもった人物である。 江戸時代末期にも、「ヒト・モノ・カネ・情報・時間」といったリソースを管理し、適切に配分していた侍がいたのだろう。

 


 

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