残念な武将たち
酒色に溺れ城を乗っ取られた斎藤道三の孫 斎藤龍興

真田幸村(信繁)に代表されるような「戦国武将」と聞くと、情けに厚く義理堅く、そして勇猛果敢というイメージがあり、有名な逸話や武勇伝、名言を残した武将が多い。

しかし 武勇伝で飾られた武将ばかりではなく、なかには「オッ・・・」と思うようなドジをしでかした武将も多い。 このようなドジを踏んだ武将を少々掘り下げて調べてみた。 見方を変えれば、乱世を駆け抜けた戦国武将も、普通の人間であるということだ。

第1弾は「斎藤龍興」という武将を見てみよう。

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斎藤龍興とは

斎藤龍興(たつおき)は、「美濃の蝮(まむし)」と恐れられ、下克上の代名詞のように云われる「斎藤道三」の孫である。

今年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」は、新型コロナの関係で中断してしまったが、斎藤道三とその息子の義龍との間で争われた「長良川の戦い」で、斎藤道三が息子の義龍に討たれるシーンが中断前のハイライトであった。

この「父親殺し」という汚名を背負った父を持つのが「龍興」で、父親の妹 つまり叔母さんが織田信長の正室である「帰蝶(濃姫)」といった家系を持つ。

突然の家督相続 そして酒色に溺れる

龍興の父・義龍が斎藤道三の隠居により家督を継いで稲葉山城主となり、更に斎藤道三を討って名実共に美濃国主となった。 しかしその5年後、33歳という若さで急死してしまったのである。

これに驚いたのは息子の龍興だろう。 わずか14歳で突然の家督相続。 元服して大人の仲間入りをしたとしても、現代で考えればまだ中学生である。

ここで歴史に名を成す名将であれば、不屈の精神とリーダーシップを発揮して・・・ となるのだが、普通の若者だったのかクソ真面目でストレスに負けたのか、酒と女の世界へのめりこんでいったそうである。

どのようにのめりこんだのか詳細は不明だが、まだ10代という若さで酒と女に溺れるとは羨ましい。 私も溺れたい・・・ 

名軍師・竹中半兵衛を馬鹿にして城を乗っ取られる

龍興は道三の頃から仕えていた美濃三人衆と呼ばれる重臣を退け、評判の悪かった斎藤飛騨守なる人物を重用しはじめた。 この斎藤飛騨守という人物は、天才軍師として名高い竹中半兵衛を馬鹿にし、櫓の上から半兵衛の顔に小便をかけたという説話が残るほどの阿保だったようである。

この状況に怒ったのが竹中半兵衛である。 ある日武具を隠して僅か16人で入城し、小便を放った 斎藤飛騨守 を斬殺。 さらに斎藤龍興を追い出し、稲葉山城の乗っ取りに成功したのである。

岐阜城

城を返還されるもやはり・・・

竹中半兵衛の本心は、美濃を乗っ取ることではなかったようである。 もし本気で乗っ取るなら、龍興を逃さず討ち取るだろう。 実際は龍興にお灸をすえることが目的だったようで、半年後には返還されている。

このような状況から、若き当主を見限って信長側に走る家臣が相次ぎ、斉藤家は急速に衰退しはじめたのである。 そして重臣であった美濃三人衆が織田家に内通。 遂に稲葉山城は織田信長の手に落ちた。

この時斎藤龍興は20歳。 長良川から船を使って伊勢の長島へ逃れたという。

打倒信長に執念を燃やす

稲葉山城から辛うじて逃れた龍興は、その後信長に対して復讐の執念を燃やし続けるのである。

伊勢の長島に逃れると、信長と対立していた長島一向一揆に加わり、次は京に上り三好三人衆と結託し、信長が擁立した室町幕府の足利義昭を襲ったりしている。 更に石山本願寺や雑賀衆とも組んで、信長に挑み続けたのである。

最後は越前の朝倉家の客将として、信長軍と戦い戦死したという。 享年26歳であった。

名誉を回復する話も残る

酒色に溺れ竹中半兵衛に城を乗っ取られ、信長にも城を追われた斎藤龍興だが、名誉回復するような話も残されている。

一つはルイス・フロイスという宣教師が書き残した「日本史」という資料の中で、龍興を「非常に有能で思慮深い」という人物評で描いているそうだ。

もう一つの話は「生存説」である。 戦に敗れた龍興は越中に逃れ、原野の開墾を進めて「経力村」という村を開き、最後は出家して85歳で亡くなったという話が残っているそうだ。 これらの話を読むと、家督を継いだ時から信長と戦い続けた頃までとはかなりイメージは異なっている。

もし斎藤龍興の生存説が真実であれば、本能寺で信長が討たれた時に狂喜乱舞したか、または自分の手で討ちたかったと歯噛みしたかのいずれかだろう。

 


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