羨ましき・・・ 江戸の銭湯は混浴だった!


 
「銭湯の謎」(銭湯博士 町田 忍著 扶桑社刊)という本を読んだ。 実に様々な銭湯に関する話題が網羅され、雑学として大変面白い本であった。

例えば銭湯の風呂桶で良く見かける”ケロリン”とか、風呂上がりの”コーヒー牛乳”、更に”出歯亀”という言葉の由来などである。

中でも江戸時代の銭湯に関する説明は面白い。 銭湯の始まりは鎌倉時代に遡るようで、現代のサウナのような蒸し風呂だったそうだ。 そして江戸時代になると混浴だったというから羨ましい限りである。 せっかくなので、江戸の銭湯事情を紹介しよう。

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「戸棚風呂」 江戸の銭湯は暗闇の中のサウナ

江戸の銭湯の始まりは天正19年(1591)で、現在の呉服橋と常磐橋の中間あたりにあったと伝わるそうだ。

当初の銭湯は深さ30センチほどの湯が張ってあり、蒸気を逃がさないように回りを板で囲ってあった。 要するに腰まで湯に浸かり、上半身は蒸し風呂といったようなものだろう。

この風呂に入る時は、囲いにある引き戸を開けて入り、形が戸棚のようなので「戸棚風呂」と呼ばれていたそうだ。 中は真っ暗で、一度に大人数が入ることはできなかったようだ。

画像出典:銭湯の謎(扶桑社)

「柘榴口」 小さな入口から大人数で入れる風呂へ

戸棚風呂には大人数が入れないという欠点があったが、次に「柘榴口(ざくろぐち)」と呼ばれる形式に進化した。

戸棚風呂の入口にあった引き戸の代わりに、高さ1メートルほどの小さな入口を設け、この入口を「柘榴口」と呼び、屈むようにして風呂場へと入って行った。

柘榴口から風呂場に入ると3畳ほどの湯船があり、これにより一度に大人数が入浴できるようになった。 しかし相変わらず蒸気を逃がさないよう周囲は囲われ、窓もなく暗い上に、蒸気が立ち込めて何も見えない状態だったそうだ。

そのため浴槽に入る時は、ひと声かけたり咳払いするなど、気配りしながら入浴したとのこと。

「すえ風呂」 首までどっぷり浸かるようになる

当初は蒸し風呂のような風呂に入っていたが、現在のようにたっぷりと湯を張り、首まで浸かるようになったのは慶長年間(1596~1614)の末頃からのようである。 水道などのインフラも整備され、水事情が良くなったことも関係するかもしれない。

風呂桶にかまどを据え付けて湯を沸かすので「すえ風呂」と呼ばれていたが、湯船の下にお釜を置いて湯を沸かす「五右衛門風呂」は、どうも関西が発祥の様である。

「湯屋」 間取りは現在の銭湯とほぼ同じ

江戸時代後期になると、「湯屋」と呼ばれる銭湯が一般的になってきた。

土間で履物を脱いで棚に入れ、入口から入ると現在の番台に相当する「高座」と呼ばれるものがあった。 この番台の横は脱衣所で、脱いだ着物を戸棚や駕籠に入れたり、風呂敷に包んで床に置いておく場合もあったようだ。

脱衣所の先が洗い場で、更にその先に湯船があるという構造は、現在の銭湯とほぼ同じである。

しかし江戸の銭湯では脱衣所と洗い場の間に仕切りはなく、脱衣所から丸見えだったそうだ。 そして洗い場と湯船の間には「柘榴口」があった。

「湯文字」 何ともエロチックな響きを持つ言葉

現代は裸で入浴するが、昔は何かしらを身に付けて入浴していた。

初期の蒸気風呂の頃には男女とも腰に布を巻いて入浴し、女性は裾が開かないように錘を入れていたという。

湯に浸かる風呂になってからは、男は「風呂ふんどし」、女性は「湯文字」と呼ばれる腰巻が使われるようになった。 上半身を露わにして、「湯文字」が濡れて体の線が浮き立つ姿を想像すると、なんともエロチックと感じるのは私だけだろうか?

一方興ざめな話だが、男が風呂から上がる時に「風呂ふんどし」を湯船の中で洗ってから出たそうだ。 したがって湯船の湯は相当汚かったと思われるが、真っ暗な部屋に湯船があるので汚れは見えなかったようである。

「入り込み湯」それは禁止されても続いた混浴風呂

江戸の銭湯には男湯のみ、女湯のみ、男湯女湯を仕切った湯、「入り込み湯」と呼ばれる混浴の5種類があったそうだ。

この「入れ込み湯」と呼ばれる混浴では、暗い浴室で女性にいたずらする輩がいた。 これは理解できるが、初めからそれを目的にして連れだってやってくるカップルもいたというから凄い! まさに現代のラブホテルの代わりとして利用していたといえる。

当然風紀は乱れるので、幕府は混浴禁止令を何度か出したが、改まることは無かったようだ。 男と女がいる以上、まして裸で一緒に風呂に入るのだから、素直に「ハィ! 止めます」とはならなかったのだろう。

嘉永6年にペリーが来航し、日本の風習を見てブッたまげたそうだが、内心は羨ましいと思っていたかもしれない・・・

「湯女」という女性の働きは?

「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性を置く、「湯女銭湯」というものがあった。

この「湯女」という言葉も艶めかしいが、主な仕事は客の垢すりや髪を整えたり、湯上りの酒の席のお相手を務めたそうだ。 となれば当然枕を共にすることもあった訳である。

かなり繁盛したようで、吉原の客が減り、吉原の遊女が湯女のいる銭湯に出稼ぎに来たという話もあるようだ。 未公認なので幕府も取り締まりを行ったが上手くいかず、やむなく銭湯1軒につき湯女は3人までと規制を行った。 街道沿いの宿場にいた飯盛女と同じである。

「混浴」 明治まで続いたが、考えると・・・

混浴を禁止する措置は様々行われたが効果なく、明治に入り外国からの指摘もあって、明治12年に政府による柘榴口廃止によって混浴は無くなったそうである。

しかしこれは銭湯の混浴の話であり、温泉での混浴はまた別の話の様である。 戦前や戦後の温泉地の湯治風景の写真をみると、胸も露わに混浴している。

そもそも「性」に対する考えは、現代と比較して昔はおおらかだったようだ。 女性は「処女を大切に守り、1人の夫と生涯添い遂げる」などの貞節観念は無く、夜這いも多かったそうだ。 また男の世界でも“バイセクシャル”が多く、男娼が多くいたというから驚きである。 したがって江戸の世では、男も女も気にせずに混浴を楽しんでいたのかもしれない。

「混浴露天風呂」 もし若い女性と1対1になったら!

現代でも山奥の温泉へ行くと混浴はある。 何度か混浴の露天風呂に入ったが、幸か不幸か若い女性と遭遇したことは無い。 女性が入ってくるのを湯に浸かって待ち続ける「ワニ族」と呼ばれる男もいるようだが、実際に女性と1対1で混浴になった場合どうなるだろう?

私は気が小さいのでどうして良いかわからず、また目のやり場に困り宙を見つめたり肩に湯をかけたりと、一生懸命に そして不自然に「自然らしさを取り繕う」ことになると思う。

期待しつつも、いざ現実になると挨拶程度は交わすだろうが、お互い緊張と気まずさに満ちた時間となるだろう。 そして何事もなく風呂から上がった後、「もっと話せばよかった・・・」と後悔するのである。

 

混浴の温泉で旅の女性と知り合い、燃え上がるような一夜を・・・ これはまさに妄想や小説、AVの世界の話である。

 
 


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