江戸の旅 見栄を張った大名行列

「下に~ぃ 下にい」。 先導の露払いの掛け声と、毛槍を持った奴さん等が周囲に威厳を示しつつ、沿道の庶民を土下座させながら整然と進む大名行列。 これが江戸時代の大名行列に対する一般的なイメージであろう。

浅田次郎の小説「一路」でも、”武勇抜群、容姿端麗、優雅な挙措動作”とおだてられ、武者絵か端午の節句の人形のごとき装束を身にまとった偉丈夫の佐久間勘十郎を先頭に、家康公伝来の目の覚めるほど鮮やかな、朱色の大きな槍を持つ双子の奴が続いて道中を進んでいく。

江戸時代の庶民の旅を調べる中で、参勤交代における大名行列の話もいろいろと学んだ。 それによると、今まで抱いていた大名行列のイメージと異なる側面をもっていたことがわかった。

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社員旅行の幹事役のような侍がいた。

江戸時代の大名に課せられた大きな役務は参勤交代である。 参勤交代は1度に100人から千人もの団体で移動し、宿場にある旅籠だけでは足りない場合もある。

このような時は、お寺や一般民家を民宿として使ったそうだ。

このような大きな団体が突然現れて宿泊を頼まれても、宿場では当然対応できない。 そのため参勤交代の数か月前、あるいは1年前に本陣の予約をとり、2,3か月前には宿の割振りを担当する侍が来て、下見とともに供人の旅籠割りを行った。

現在の社員旅行の幹事役のようなものだが、いざ参勤交代の旅に出れば、供人などからの不平不満で気苦労が多かったことだろう。

大名は宿泊費を払わなかった?

参勤交代は軍旅の形式をとり、大名が本陣宿泊時には「関札」と呼ばれる木札に「何某泊」と書き、数日前に宿場入口にこれを立てた。

「関札」が立つと本陣では一般の客を受け入れず、夜には定紋の入った提灯を下げ、玄関や門に幕を張り巡らせ、さらに家中の侍が24時間待機したそうだ。 まさに大名の泊まる本陣は戦の体制であった。

軍旅で本陣が前線ということになると、大名は宿泊費を支払う義務はなかったようで、祝儀の名目として3~5両の思し召しを置くだけであった。 しかし本陣側からすると、人足料や家臣たちの分宿が宿場全体を潤したそうだ。

「下に~ぃ下にい」はウソだった!

時代劇などでは、「下に~ぃ下にい」と参勤交代の大名行列が通ると、農民や町民が土下座して見送るシーンをよく見る。

しかし「下に~ぃ下にい」の掛け声を使えるのは、将軍家と徳川御三家だけだったようで、他の大名達は「片寄れ~、片寄れ~」とか「よけろ~ぉ、よけろ~ぉ」という掛け声を用いていたそうだ。 なんとも締まらない感じである。

土下座が必要だったのは将軍家と徳川御三家の紀伊、尾張徳川家だけであった(水戸徳川家は参勤交代を免除されていた)。 他の大名の場合は、立ったまま行列を眺めていたようである。

娯楽の少なかった庶民にとって、ディズニーランドのパレードを楽しむようなものだったのかもしれない。 ただし行列を横切ることは御法度であった。

大名行列は見栄の塊

大名行列が「下に~ぃ下にい」と、常に行列を組んで行進した訳ではないそうである。 整然と行進したのは国許の城下と領地境、宿場の発着時、それに江戸入りの時だけであったようだ。 要するに行列を見物する観客が多い場所では、威風堂々と大名の威勢を顕示する為に、見栄を張っていたのである。

では観客の少ない山道や田舎道ではどうであったのか? それは隊列もバラバラで歩いていたようである。 しかし決してブラブラ歩きではなく、歩きのモードを切り替えて猛ダッシュ。 恐らく黙々と早足で歩いていたのだろう。 これは1日でも宿泊日数を減らして、経費削減に努めるためであったそうだ。

台所事情は苦しかった・・・

参勤交代は軍勢の移動 つまり行軍とみなされ、禄高や家格に従って槍持ち・弓持ち・鉄砲持ち・草履取り・荷物持ちなど、多くの従者から成る行列を組むことが必要であった。

では参勤交代に必要な経費はどの程度か? 現代の民宿1泊2食付で団体割引に早割をと交渉して5,000円とした場合、総勢100人で参勤交代に出発すれば1泊50万である。 国許から江戸まで10泊が必要であれば宿泊費だけで500万。 加賀百万石の前田家などは最盛期で4,000名の行列だったというので、とんでもない費用が必要であった。

このような膨大な経費を削減するため、さまざまな努力がなされたようである。

先にあげたように宿泊費を減らすために努力し、東海道の大津から江戸まで、普通は14,5日かかる所を、11日か12日で歩いていたようである。 特に九州の大名は足が速かったようで、「超高速!参勤交代」という映画があったが、あながちフィクションでもないようである。

もう一つが、全てを家臣や家来だけで構成せず、通日雇と呼ばれる臨時雇いの足軽や小者、人足などが、行列人数の約三分の一を占めていたと云われている。 正社員だけではなく、人件費を抑えるために非正規社員を多用する点は現代と同じである。 また現地採用の人足なども活用したはずである。

更に食事を制限して空腹を抱えて歩いたり、途中で資金不足に陥り、出入り商人に金の都合を懇願するなど、苦しい台所事情が記録に残っているそうだ。

「武士は食わねど高楊枝」 苦しい台所にも関わらず、格式社会に生きる武士の世界では、見栄を張る必要があったのだろう。

参勤交代は経済効果と文化交流

参勤交代は3代将軍・徳川家光が制度化した。 「諸大名は1年おきに自領と江戸を行き来し、妻子は人質として江戸で生活をしなければならない」というものである。

その目的は、参勤交代の移動費用を各大名に負担させることで、諸大名の蓄財・経済状況を弱め、謀反を防ぐことと云われている。 他の目的として、1年おきに江戸の防衛を担当することとも云われている。

しかし目的は別として、参勤交代は宿泊費や人足の現地採用など、街道沿いの雇用創出、経済活性化に貢献し、さらに様々な大名領地の文化と江戸文化を全国に広める効果があったものと思われる。

しかし 東北や鹿児島で生まれ育った侍が、参勤交代で江戸に出てきた時に会話できたのだろうか? 島津家から13代将軍・徳川家定に嫁いだ篤姫が、江戸城内で「好いちょっど!」とか「きばいやんせ!」なんて話していたら面白いのだが・・・


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