残念な武将たち
忠臣蔵 幕府隠密が調べた浅野内匠頭と大石内蔵助の人物像

戦国武将

真田幸村(信繁)に代表されるような「戦国武将」と聞くと、情けに厚く義理堅く、そして勇猛果敢というイメージがあり、有名な逸話や武勇伝、名言を残した武将が多い。

しかし 武勇伝で飾られた武将ばかりではなく、なかには「オッ・・・」と思うようなドジをしでかした武将も多い。 このようなドジを踏んだ武将を少々掘り下げて調べてみた。 見方を変えれば、乱世を駆け抜けた戦国武将も、普通の人間であるということだ。

残念な武将たち第4弾は、「忠臣蔵」の主人公「浅野内匠頭」と、仇討ちを敢行した「大石内蔵助」に対する幕府に人物評価から、真の人物像に迫ってみよう。

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江戸300年 大名たちの興亡

「江戸300年 大名たちの興亡」(江宮隆之著 学研文庫)という本を読んだ。 関ケ原の戦い以降、大名家として明治維新まで家を残した武将、逆に取り潰されて消えていった武将など、約30人の武将・大名の興亡が書かれた本である。

大名たちの興亡

この中に忠臣蔵で有名になった赤穂藩藩主「浅野長矩」が、「短気が原因で御家を潰した大名」として書かれている。 そして浅野長矩(以降 浅野内匠頭)や家老の大石内蔵助を、幕府がどう見て評価していたかを、残された記録で紹介している。 

江戸幕府で活躍した隠密とは?

江戸時代、幕府は隠密を使って各藩の事情を調べて報告させ ていたという。 また隠密とは別かもしれないが、「国目付」と「巡検使」という旗本の役職があり、この役職も地方に派遣されていたようである。

「国目付」は、2名1組となって監視対象の大名のもとへ赴き、その城下に数ヶ月滞在し、藩政や民情などを厳しく監視したという。 もう一つの「巡検使」は、一ヶ所に滞在するのではなく、諸大名の所領を渡り歩き、各藩の内情調査を主な役目としていたそうだ。

播州赤穂藩にもこれらの調査が秘かに入り、こっそりと調べていたようである。

浅野内匠頭は「女色にふけるの難」 大石内蔵助は「不忠の臣」

幕府が隠密を使って各藩の事情を調べさせ、報告を受けた記録が残されている。 その中の一つに、「土芥冠讎記」(どかいこうしゅうき)という難解な名前の書物があり、この中に赤穂藩主・浅野内匠頭と、国家老の大石内蔵助についての人物評価が書かれているという。

●浅野内匠頭 :「女色にふけるの難」 奥に引き籠り、女と戯れるだけの藩主である。

●大石内蔵助 :「不忠の臣」 色に溺れる主君を諫めず、黙って見ているだけである。 

藩主などは、「文武」や「業績」などが評価されると思うが、浅野内匠頭に関しては、「女色にふけるの難」 以外、何も評価されていないそうである。 つまり「淫乱無道」ということらしい。

赤穂藩は改易寸前だった?

大名の行状を記した「諫懲後正」という書物にも、浅野内匠頭のことが記されているそうだ。 それも浅野内匠頭が刃傷沙汰を引き起こす、僅か1~2ヶ月前に書かれたという、非常にホットな情報である。 その書物に書かれている浅野内匠頭の人物像は・・・

●文道を学ばず、武道を好む。

●気が小さく律儀である。

●淳直な性格で非義はしないが、家士や民間を憐れむという訳ではない。

●仁愛の気味はなく、贅沢はしないが、民から貪っている。

●軍学と儒道の心がけはあり、公の務めは怠らない。

●世間の交際に専心するが、気質に幅がなく、知恵もなく、短慮である。

●奥方の下女に非道を働き、世間の聞こえは良くない。

●すでにこの家は危うく、近く改易になるだろうとの噂がある。

真面目そうな性格も見えるが、どちらかというと酷い書かれようである。 世間に聞こえるほどの非道を働いたとは、いったい下女に何をしたのか? 「忠臣蔵」では正室の阿久里とは仲睦まじく描かれているが、冷え切っていたのではないか?

浅野内匠頭は名君か暗君か?

実際の浅野内匠頭はどうだったのか? 目立った業績は残していないそうだが、家臣団の融和に力を尽くし、海辺の寒村だった赤穂が、内匠頭の時代に500軒を超す町家が並び、民の数も5000人を超す城下町に膨れ上がったという。

一方、刃傷沙汰を起こしてお家取り潰しとなり、赤穂藩が赤穂から出ていくことになると、領民たちは赤飯を炊いて喜んだという話も残るようだ。

なぜ松の廊下で吉良上野介を仕留められなかったのか?

江戸城・松の廊下で、「この間の遺恨覚えたるか!」と叫んで、吉良上野介を斬りつけた浅野内匠頭。 この時身に付けていた武器は、殿中差しと呼ばれる小サ刀(ちいさがたな)。 争う意思のないことを示す、刃渡り25センチほどの装飾用小刀だったそうだ。

子供のチャンバラ遊びのように、 この小さな刀を振り上げて襲い掛かったのである。 必殺を狙うなら、心臓を一突き または頸動脈や動脈を切るなどしないと無理だろう。

浅野内匠頭は癇癪をよく起こしたそうだが、松の廊下で癇癪大爆発。 ブチ切れて武士の心得も忘れてしまったのだろうか?

江戸城末の廊下

寝込みを襲い老人を痛めつけた赤穂浪士

テレビなどで見る「忠臣蔵」 史実と創作が盛りに盛られた「仮名手本忠臣蔵」が基である。

主君の仇を討つ美談であるが、見方によってはテロ、仕返しである。 吉良邸に警護の侍達もいたが、大半は布団の中でぬくぬくと・・・ そこに鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、手甲に脚絆といった完全武装した男たちが大勢で押し入ったのである。

警護の侍達が布団から飛び起きて防戦するも、寝間着姿に裸足で雪の積もる外に飛び出した。 「冷めてぇ~!」 アドレナリン出まくりとはいえ、余りに不利な体制である。 現在の価値観、倫理観で考えると仇討ちは美談ではなく、よってたかって老人をボコボコに痛めつけたようなものである。

忠臣蔵 忠臣蔵

疑問が1つある。 それは当時の江戸の町には5000ヶ所もの木戸があり、夜10時から翌朝まで閉ざされ、木戸番とか辻番が猫の子一匹通さない厳しさで見張っていた。 そこに完全武装した男たちが徒党を組んで行軍したのである。 木戸を通らなくて吉良邸に行けたのだろうか?

 

この赤穂事件は、社長の浅野内匠頭の乱心で会社は突然死。 社員である藩士は唐突に解雇。 路頭に迷い、再就職目指す日々の始まりといった、倒産劇のようなものである。

また内匠頭が吉良上野介を一発で仕留めておけば、後に47人(実際は46人)もの侍が腹を切るという悲劇は生まれなかっただろう。 吉良を打ち損ねた浅野内匠頭は、武士の名折れでもあった。

 


 

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