旅行日:2017年6月10日
和田峠を下り、長かった国道歩きも終えて、いよいよ下諏訪宿に入る。
下諏訪宿は、前後に和田峠と塩尻峠といった難所が控え、甲州街道の終点で交通の要所でもあった。 また諏訪湖の風光も良く、中山道唯一の温泉地で、更に諏訪大社の門前町でもあることから、非常に賑わった。
日 付 | 区 間 | 里程表 | 実距離 | 万歩計 | ルート | |
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2017年 6月9日 |
和田峠 その1 和田宿~男女倉口 |
5里14町 | 21.2Km | 6.2KM | 8,932歩 | Map |
2017年 6月10日 |
和田峠 その2 男女倉口~町屋敷 |
18.4KM | 30,271歩 | Map | ||
下諏訪宿 町屋敷~下諏訪駅 |
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合 計 | 5里14町 | 21.2Km | 24.6Km | 39,203歩 | ||
日本橋からの累計 (累計日数 : 18日目) |
55里4町 | 216.4Km | 228.0Km | 375,329歩 |
里程表 : 別冊歴史読本「図説 中山道歴史読本」より。
実距離 : 各区間のコース計画時、ルートラボを利用して計測した距離。
実距離の数値をクリックで、ルートラボの計画コースを表示
MAP : GPSログを基に、実際に歩いたコースをGoogle MAP上に作図
御柱祭
町屋敷バス停の先で国道と別れ、斜め左の旧道に入る。 ここから下諏訪宿の中心部までの間は、御柱祭の木落し坂や諏訪大社など、見どころの多い区間である。
【 小さな御柱 】
静かな町屋敷の町に入ると、4本の木に囲まれた道祖神が立つ。
【 小宮御柱祭 】
諏訪大社の御柱祭が終わると、次は諏訪地方に点在する大小様々な神社の御柱祭が始まり、「小宮祭」と呼ばれているそうだ。
諏訪大社につながる神社だけでなく、各地域の産土神、道祖神、個人の屋敷神にいたるまで御柱が建てられ、それぞれ個性豊かな「小宮祭」が行われる。 地域の人々に親しまれ、暮らしに根付いている祭りと云える。
【 木落し坂 】
7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭。
「木落し」が行われる斜面を上から見ると、相当な急傾斜であった。
【 落合発電所送水管 】
木落し坂を右に見ながら、送水管の横を下る。
【 石仏群 】
送水管脇の階段を下ると、道祖神など石仏群が立つ。
山の神
和田峠の上では青空が広がっていたが、木落し坂に着いた頃には怪しげな雲に覆われていた。 木落し坂を下り、国道142号の落合橋手前で左の旧道に入るが、この旧道を歩いていると、突然結構な雨が降ってきた。 「ヤバッ!」と雨具を取り出したが、幸い雨具を付ける間もなく小やみとなり、カメラが濡れないようにタオルを巻きつけて歩き続ける。
【 山の神 】
旧道と国道の合流点にある「注連掛」を眺めて先に進む。
しばらく進むと、左の山際に「山之神」と書かれた鳥居が現れる。
鳥居をくぐると、ひっそりと「山の神」が祀られている。
すぐ横の沢沿いには、妙見大菩薩など、多くの石仏が点在している。
諏訪大社 下社春宮へ
諏訪大社は信濃國一之宮で、全国の諏訪神社の総本社だそうだ。 本殿は持たず、代りに秋宮は一位の木を、春宮は杉の木を御神木としているとのこと。
【 春宮杉並木 】
「慈雲寺」手前で右に入ると、諏訪大社春宮の裏に通じる。
右側には杉並木が続き、木立の隙間から諏訪大社 下社春宮が見える。
【 諏訪湖遠望 】
杉並木が終わると、視界が大きく開け、下諏訪市街の先に諏訪湖が広がる。
【 下社春宮へ寄り道 】
中山道を外れ、下社春宮を訪れる。
【 万治の石仏 】
春宮から更に足を伸ばし、岡本太郎が絶賛した「万治の石仏」も訪れる。
感性が無いのか、さほどの感動は受けなかったが、確かにユニークな造形だ。
【 万治の石仏 参拝方法 】
「万治」は、本来は年号である。 しかし何時の頃からか、「万(よろず)のことを丸く治(おさ)める」という意味に変わってきたそうで、石仏近くの説明版には、お参りの作法が書かれていた。
1.正面で一礼し手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
3.正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する私は一周しただけで終わらせてしまった。 恐らく「よろずおさまらない」ことになるだろう。
慈雲寺表参道
諏訪大社春宮を参拝後、再度中山道に戻り、秋宮方向に歩を進める。 沿道の左右に残る史跡を眺めながら、昔からの温泉宿の風情が残る湯田坂を抜けて、下諏訪宿の中心部へと向かう。
【 竜頭水口 】
慈雲寺への参道口にある「竜頭水口」から水が流れ出る。
慈雲寺への参拝客や中山道を往来する旅人ののどを潤した。
【 矢除石 】
慈雲寺への階段を上る途中に、武田信玄の「 矢除石」がある。
【 武田信玄と「 矢除石」 】
武田信玄は慈雲寺の天桂和尚を師と仰ぎ、戦場に赴く時は戦勝の教えを請うたと云われる。
和尚が石の上に立ち、信玄に至近距離から「弓で射て見よ」と射かけさせると、矢は岩で跳ね返されたと伝わる。 この石には“矢除けの霊力がある”とされ、信玄は念力のこもった矢除札を受け、戦場に向かったと言い伝えられている。
湯田坂風景
慈雲寺の参道からさらに先に進むと、昔の温泉街を彷彿とさせる湯田坂である。 温泉街といっても、キラキラとネオン輝く歓楽街ではない。
【 下之原一里塚跡碑 】
静かな街道を進むと、日本橋から55里の「下之原一里塚跡碑」が立つ。
【 伏見屋・中村家 】
信玄の諏訪統治と共にこの地に移り住み、代々名主・年寄役を勤めた。
現在は休憩所として無料公開されている。
【 湯田坂 】
左右に昔からの温泉宿が残る湯田坂は、静かな街道風情が残る。
【 旦過の湯 】
鎌倉時代、慈雲寺を訪れる修行僧達の為に建てられた旦過寮の湯だそうだ。
湯口は52度という高温で、戦いで傷ついた武士も入浴したそうだ。
下諏訪宿
日本橋から29宿目の下諏訪宿。 甲州街道では39宿目の終点である。 本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠40軒の規模で、中山道で唯一の温泉宿である。
江戸から京に向かう場合、和田峠を越えてホッと一息、温泉で疲れを癒したことだろう。
【 本陣・岩波家 】
諸大名の休泊所として、また江戸に向かう皇女和宮も宿泊したという。
一部公開されているが、列車の時間を考え、パスしてしまった。
【 綿の湯跡碑 】
神聖な「神の湯」は、汚れたものが入ると湯口が濁るといわれている。
丸いモニュメントに湧き出る温泉に手を入れたが、湯は濁らなかった。
【 甲州道中・中山道合流の地碑 】
碑の横には、この地点からの距離を示すタイルが埋め込まれている。
旧甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町とある。
【 御宿まるや 】
中山道と甲州街道との合流地点に建つ「御宿まるや」。
元禄2年(1689)創業で、現在も宿として営業している。
【 桔梗屋 】
「御宿まるや 」の反対側には、創業元禄3年(1690)の「桔梗屋」がある。
皇女和宮降嫁の際には、母君観行院と付人達が宿泊したそうだ。
【 高札場 】
国道142号との合流点には、高札が復元されている。
ここから下諏訪の駅はもう近い。
【 下諏訪駅 】
15時2分、下諏訪駅到着。 男女倉から6時間半ほどの和田峠越えであった。
各駅停車で上諏訪に移動し、上諏訪から「あずさ24号」で帰宅した。
信州佐久側から、諏訪側へと中山道の舞台は移った。 今までは東京駅から新幹線が利用できたが、これからは新宿に出て、中央線を利用することになる。
自宅から東京駅へのアクセスは良いが、新宿となると1時間かかる。 さらに「スーパーあずさ」といえども、2時間以上かかってしまう。 これからは移動時間に多く取られるので、宿泊を含めて効率的に動く必要がある。