地点名 | 通過時刻 移動時間 | 累積距離 区間距離 | 平均速度 | 高度 高度差 | 平均勾配 |
---|---|---|---|---|---|
START | 08:23:50 | 0.00km | 1104m | ||
04:56:02 | 18.96km | 3.8km/h | ↓312m | ↓1.67% | |
GOAL | 15:02:25 | 18.96km | 792m |
2017/06/10 08:27:48
中山道荒廃とともに散在していたものを発掘し、29体の石仏を集めて安置した。
2017/06/10 08:59:04
江戸の豪商・かせや与兵衛は幕府に金千両を預け、その利子百両で碓氷峠と、ここ和田峠に施行所を建てた。 11~3月の間、峠越えの旅人には粥と焚火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を与えたそうだ。
2017/06/10 09:13:31
「人馬施行所跡」の横に、「殉職警察官近藤谷一郎巡査碑」がある。 先に進むと、街道沿いの大きな石の横に、実際の事件現場を示す碑が置かれている。
2017/06/10 09:34:48
日本橋から52里。 山中にポッコリと左塚が残る。
2017/06/10 09:50:03
ビーナスラインの下をくぐる。 トンネル内には、歩道も設けられている。
正式には「コルゲートパイプトンネル」と云うようだ。
2017/06/10 10:00:18
和田峠への登りで、パイプトンネルで1回、道路を横切ること3回。 くねくねと曲がるビーナスラインを横切りながら進む。
2017/06/10 10:11:34
標高1600m。 男女倉の登り口からゆっくり歩いて、2時間弱であった。
峠に立つと、諏訪側から吹き上げる風が強かった。
2017/06/10 11:05:57
峠から諏訪側への下りも、ビーナスラインを3回横切りながら下る。
2017/06/10 11:15:45
大きな木の根元に置かれている。 奥には墓石が並んでいた。
2017/06/10 11:41:32
国道142号に合流。 ここからは、大型トラックの行き交う、歩道の無い路肩をしばらく歩く。
2017/06/10 12:07:27
武田耕雲斎率いる、水戸天狗党は、高島・松本両藩とこの地で戦った。 勝利した水戸天狗党は、戦死者10名をこの地に埋葬した。 そして敗れた高島藩は、後に塚を作って祀った。
2017/06/10 12:28:34
和田~下諏訪間に休憩所として造られた立場茶屋の一つ。 皇女和宮が休息したそうだ。
2017/06/10 12:33:05
右の石材置き場の様な所の先で、分岐を右に入る。 荒れた農道の様な道である。
2017/06/10 12:49:18
一里塚の碑は(株)六協(産廃処理業者)の社有地にある為パスした。
2017/06/10 12:56:31
町屋敷バス停の所で、国道から左の旧街道に入る。 交通量も少なく、静かな道にホッとする。
2017/06/10 13:22:00
諏訪大社の御柱祭で、木落としが行われる会場を右に見ながら、送水管の横を下る。
2017/06/10 13:51:15
小さな木が4本立つ道祖神。 他にもこのような柱で祀られた道祖神を見たが、諏訪地方独特の風習のようだ。
2017/06/10 13:56:43
左の「慈雲寺」手前で右の道に入り、諏訪大社春宮の裏手に向かう。
2017/06/10 14:12:00
諏訪大社春宮と万治の石仏に寄り道。 「万治」は元号で、あの大火で有名な「明暦」の後の、1658年から1660年までだそうだ。
2017/06/10 14:42:52
昭和を代表するアララギ派の歌人。 私は恥ずかしながら、全く知らない。
この今井邦子の父方祖父母の家で、江戸時代には茶屋「松屋」を営んでいたそうだ。
2017/06/10 14:51:13
甲州道中は江戸から五十三里十一丁、中山道は江戸から五十五里七丁と刻まれていた。