北浦和から与野に向けて旧中山道(県道164号)を進み、与野駅近くに来ると、車道側に「一本杉」と刻まれた簡素な石碑が立つ。
傍らに立つ説明版によると、「一本杉の仇討ち跡」と説明されていた。 この説明版を要約すると、下記のようになる。
【説明版要約】
・万延元年(1860年)、水戸藩士”宮本佐一郎”と、讃岐・丸亀藩浪人”河西祐之介”が口論の末斬り合いとなり、宮本佐一郎が命を落とした。
・宮本佐一郎の息子”宮本鹿太郎”は、4年後の文久4年に、3人の助太刀と共に仏門に入る河西祐之介を針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、見事父の仇を討った。
・この事件は幕末最後の仇討ちとして、刷りもの・はやり歌として中山道界隈に広がり、語り継がれてきた。
一方「中山道歴史散歩」という雑誌には、江戸末期に書かれた「藤岡屋日記」に記された仇討ちの様子が紹介されている。 登場人物の名も若干異なるが、説明版とは全く異なる仇討ちの様相に驚かされる。
【藤岡屋日記要約】
・宮本左門と川西祐之介は、ともに千葉周作の門弟であった。
・腕は川西祐之介の方が数段上なので宮本左門は妬み、同門の4~5人を連れて川西祐之介を討とうとした。
・しかし宮本左門は逆に討たれてしまい、この果し合いの結果、川西祐之介の評判はますます上がった。
・宮本左門の息子庫太郎は、6年後に助太刀と共に針ヶ谷村で川西を待ち伏せして名乗りをあげた。
・刀を構えたままの川西祐之介に対し、剣術も知らぬわずか15歳の庫太郎が斬りかかると、川西祐之介は避けもせずに斬られてしまった。
・これを見た3人の助太刀は、川西祐之介をめったやたらに斬り刻んでしまった。
河西祐之助は何故避けもせずに斬られたか? 人を殺めて後悔して僧となり、その後還俗して江戸に向かう途中だったらしい。 この日記内容を見ると、河西祐之助のほうが立派な武士であったことを感じる。 講談話に出てくるような仇討と異なり、なんかドロドロ感が伝わってくる内容であるが、その真実は・・・